Open sesame!9



日向は腕を取って階段を上がっていく尾白に導かれて足を運ぶ。できるだけ人がいない場所に行くつもりなのだろう、上へ上へと上っていく。一階から三階は生徒が常用する教室と特別教室があり、四階は特別教室のみとなる。それより上は屋上となり、人通りは上へいくほど減った。それでも通りすぎていく生徒達の視線を集めながら、日向と尾白は進んでいく。
教室を出て以降二人の間に会話はない。黙々と日向を引いていく尾白に常の気の抜けた穏やかさはなく。日向は自らの至らなさを深く胸に刻みつけながら、せめて尾白の言い分を余すところなく受け入れしっかりと向き合っていこうと決めた。それから日向の不始末を謝り、それから――それから、いつも通り尾白が心安らかに雲を眺められるように尽力したい。
尾白は四階のトイレに日向を連れ込み、後輩を先に洋式の便座に座らせると日向に背を向けたままその扉に鍵をかけた。学校のトイレの個室に二人きりの沈黙が落ちる。
すると尾白の張り詰めていた空気がだらっと緩んだ。次いで長く深い溜め息が聞こえてくる。まるで風船が空気を抜いて萎んだかのような変化だった。
あれ、と日向は瞬く。もしかして、尾白はそこまで怒ってはいないのだろうか。以前に保健室で感情をぶつけられた時とは若干様子が違うとは感じていたが――いやいや、それでも日向が反省を怠っていい理由にはならない。
「あの、先輩……?」
こっそりと日向が窺うと尾白が振り返り、今度は扉を背につけて向かい合う。
「……お前ほんと力業だな。俺はまだお前と顔を合わせるつもりなかったのに」
冷たさや険しさはない、常の気の抜けた尾白がそこにいた。その朝焼けの瞳が日向の輪郭をじっくりと辿るので、体の端から喜びが満ちていく。目の前に会いたかった人がいる、そしてその人が日向を認識しているという事実に痺れるような感情が沸き起こった。尾白の口許には少しばかりの苦味を添えた笑みがあって、それでさえ彼の魅力を引き立てる材料にしかならない。日向はせりあがってくるものをぐっと堪え、今言うべきことは何なのかを考えた。
尾白が駆け付けたのはよほど日向達が騒がしくしていたか、或いはその騒ぎを玉生経由で知ったかのどちらかだろう。以前に尾白が日向達の教室に来た時には玉生や尾白自身の指示もあってギャラリーの興奮はぎりぎりで食い止められていたが、今回は違う。暴走して、歯止めが効かなかったのだ。
途中から何か変な方向に行っているなとは思っていたが、日向も思うところがあって流されるままになっていた。日向も他のクラスメイト達も止まれなくなっていた。
何はともあれまずは仕置きを受けねばならない。
「先輩のお叱りはごもっともです。尻でも何でも叩いてください」
キリッと真面目に言い切り日向が立ち上がって尻を差し出そうするのを、尾白がそんなのするわけないだろうと日向の両肩に手を置いて押し留める。
「しないんですか」
「しないよ……って何でちょっと残念そうなんだお前は。あれはあの場を切り抜けるための方便だから」
頭をぺしんと叩かれる。叩かれたと言っても全然痛くはない。髪を上から強めに押さえ付けられた程度だ。尾白の掌はそのまま日向の頭を軽く撫でて去っていった。
日向は、尾白はこういう人なのだなあと目の前の人を慕情をたっぷり含んだ目で見上げる。尾白は教室に来てから強引で冷たくはあったが、乱暴はしなかった。その事実に日向の恋心がそわそわと浮かれ始める。そんな日向の視線を見つめ返す尾白もなんだかほんわり優しく感じられるから、日向の頬も自然と緩んできてしまう。
だがそこで日向は我に返った。こんなことをしている場合ではない。つまり尾白は自ら泥を被ったのだ。それも日向が原因で起こった騒ぎを静めるために。
「先輩、大変です。このままだと先輩が僕の尻を喜んで叩く人間だということに……!」
少なくともあの場にいたクラスメイト達は尾白の言葉を真に受けただろう。玉生達はどうだろうか。
実際の尾白はそうしたこととは無縁な人物であるのに、それが誤解して伝わってしまうとは何たることか。慌てる日向を他所に、しかし尾白は動じない。
「まあ元々神無月が流した噂もあるし、今更だろ。また同じことが起きるかもしれないし、そのための予防策だと思えば」
自身の不当な評価すら流してしまった尾白は、下手な言い訳はせずそのままにしておけと言う。こうなっては日向に言えることはなく、謝罪も受け取ってはくれないだろう。そもそも日向が流れに乗らずに軌道修正できていれば済んだ話なのだから。
「でもそれだと日向が俺に尻を叩かれてることにもなるから、嫌だったらそのへん否定してもいいぞ」
日向は少し考えてから言った。
「いえ、嫌ではないです。僕がそういう目にあうことをしたのが悪いんですから。先輩は理不尽なことはしないでしょう?仮に先輩がそういうことをしたいと言っても、僕は拒否しないと思います」
むしろ合意の上で全力で応えたいとでも言いたげだった。実際日向の心情は言葉の通りで偽りはない。尾白は腕を組み、言う。
「まあ、しないけど……日向も人のこと言えないと思うぞ」
「そうでしょうか」
「そうだ」
自信たっぷりに重々しく尾白が言うので、そういうものかと日向は思う。それから日向は居住まいを正し、尾白に改めて尋ねた。
「先輩、僕がなぜこんなことをしたのか聞いて下さいますか」
言い訳をするつもりはない。ただこうして尾白も知ることになった以上、話しておきたいと思ったのだ。了承を得たので早速日向は語り始める。
きっかけは矢田川からの写真で、目的は“考え事”をしている尾白の気分転換にでもなればと思ってのことだ。まず始めに思い付いたのは和める方向でのもの。そこから間違い探しや風景から日向がどこにいるのかを当ててもらうものなど、笑える方向でのバラエティに富んだ写真を揃える予定だった。この試みが尾白に好評なら、更に癒し路線も加えて雲にちなみもこもこふわふわなものを集めた、略してもふシリーズにも着手する予定だった。
そんな日向の打ち明け話を聞いた尾白は、うんまあそんなことだろうとは思ってたといつも通りに流す。
そして日向は思いきって、日向が尾白に何かしようと思う際にはどういったものがいいか聞いてみた。今後リベンジをするにしても日向側の意見だけでは配慮に欠ける部分もあるだろうし、また今回のようなことを引き起こすとも限らない。そういったことを避けるためにも、尾白側の意見を取り入れればより適したものを提供できると考えたのだ。
そのものずばりな質問に尾白は顎を指で撫で、視線を上空にさ迷わせて答える。
「……そうだな、何をして欲しいかっていうより、日向にはまずほうれんそうをお願いしたい」
報告、連絡、相談。どれでもいいから実践してくれれば確実だし無駄がない。節約ですねと日向が何やら心得た風に言えば、時短だなと尾白もとぼけた方向で合いの手を入れる。
「了解しました。僕も尾白先輩と話し合って決められるのならそれに越したことはありません」
日向の小気味いい返事に尾白はうんと頷き、言いたいことはまだあると日向に向けられた視線が言う。
「それとな、俺から接触しといて何だけど、直接会うのはまだ控えて欲しい。自分の中で答えが出てないんだ」
悪いな、と幾分殊勝に紡がれた謝罪に日向は首を横に振る。寂しいが、尾白の邪魔はしたくない。分かりましたと答え、それから尾白へ申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません、先輩には近付くなと言われていたのに……」
決め事を破るきっかけを作ってしまったとしょげる日向に、今更だと尾白は笑う。
「俺から接触したってことでセーフでいいだろ。――な?」
「……はい」
屁理屈は屁理屈だったがそう言って同意を求める尾白が茶目っ気がありながらも優しいので、日向もつられて微笑む。それでも前言撤回させてしまったことに違いなく、今後は気を付けます、と真面目に決意表明しておくのを忘れなかった。
そういえば今回の騒ぎの元になった写真はどうしようか。尾白に一度見てもらって、それから進退を決めてみようか。そう考えた日向は制服のあちこちを探り、肝心の携帯をクラスメイトに預けたままだったことを思い出す。
「どうした?」
「いえ、先輩に撮った写真を見て頂こうと思ったのですが――」
そこまで言ってから日向はふと覚えた違和感に言葉を切った。
「……そういえば先輩、写真がどうとか言っていませんでしたか?あれはどういう意味です?」
ここに連れて来られる前に教室で、尾白が悪い顔で何か言っていたような。日向の疑問に尾白はあっさり答える。
「ああ、あれか。いきなり送られてくるからびっくりしたぞ」
えっ、と日向は固まった。まるで日向の写真が実際に送られてきたかのような口振りである。恐る恐る、どういうことでしょうと確認すれば、やっぱり勝手に送られてきてたのかと尾白は恐ろしいことを言う。
「玉生と話してる時に日向の写真が送られてきたんだよ。さすがにやり過ぎだと思って止めに行った」
ということは、尾白が日向達の教室に来たのは騒がしさが原因ではなかったのか。いや今はそんなことはどうでもいい。
「ど、どんなものが」
ありましたか、と片言で日向が問う。うまく舌が回らなかった。
「どんなって……お手とか、膝枕とか」
「そ、そうですか」
固唾を飲んで尾白からの返事を待っていた日向は、挙げられた内容にほっと肩の力を抜く。しかしそんな後輩を尾白は意味ありげに見る。もしやまだ何かあるのかと身構えた後輩に、先輩は一つ一つ丁寧に数え上げるように言った。

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