花結び29



尾白が見守る前で日向は混乱の渦からようやく抜け出そうとしていた。
「でもそんな、そんなのって……有り得――ますかね?」
心許なさそうな日向に、あると尾白が腕を組んで自信たっぷりに宣言すれば、ふっと日向の緊張が緩んだ。それだけでなく、小さくだが確実に笑い始めた。
「ふ、くっ……ははっ。――もう、っそんなの、屁理屈ですよ」
そう言いながらもやわらかく蕩けた声音やその表情が蟠りがなくなったことを知らせていた。何より尾白に向けられるその眼差しがとても優しく、溢れるほどの情に満ちているので尾白の方が気恥ずかしくなるくらいだ。
「それで、お前はどうしたい」
改めての尾白の確認に日向は明快に答える。
「こんな僕ですけど、よろしければまた先輩のお傍に置いてください」
ここに至っても日向から尾白への要求はやはり“お願い”止まりである。尾白の答えは決まっていた。
「好きにしろ」
「――はい」
日向は噛み締めるように答え、しかし堪えきれずにまた顔が綻ぶ。とびきりの笑顔だった。
「――あ、そういえば」
それからまたしても日向が何かに気付いた様子なので、まだ何かあるのかと尾白が問えば日向は少し口ごもった後に付け加える。
「いえ、あの……先輩は自分を大事にしろと仰ってくださいましたけど、そこのところがよく分からなくて」
「そのままの意味だぞ」
分かっていますと日向は頷く。
「でも僕はこうして先輩に思いを伝えられて、傍にいることができます。これ以上ないくらい僕の願いは叶えられているのに、どうして僕が自分を大切にしていないことになるんでしょう?」
先輩が心配してくださる気持ちはとても嬉しいんですけど、と日向は真面目に考え込んで首を傾けている。――これはなかなか難物かもしれないと尾白は思った。尾白もそれなりに自分の面倒臭さは承知しているが、日向も日向でかなりの難物だ。色々なことを短い時間でこねくり回し、結局はまあいいかと流す。
「お前がどんなでも俺が気を付けてればいいことだもんな」
人間誰しも面倒臭い部分はある。要するにそこが合うか合わないか、どう折り合いをつけていくかなのだろう。
だが日向からの返事はなく、どうしたのかと思ったら真っ赤になって顔を抑えて俯いていた。
「……すみません、先輩が好きだと思ったら高ぶってしまって」
今のどこにそんな要素があったのかは分からないが高ぶったらしい。恋心は時も場所も選ばないようだ。これもまあいいかと流した尾白は、日向を促して移動を始める。そろそろ教室に戻らないといけない。まさか丸一日授業をサボるわけにもいくまい。その途中でやはり日向は尾白の後ろについた。尾白はその日向の腕をつかみ隣にまで引っ張る。戸惑う日向に尾白はそっけなく、どうせなら後ろより隣にいろと言う。すると途端に日向の動きがぎこちなくなった。
「嫌か」
「いいえ、そんなことは!ただ、緊張してしまって」
それに慣れろと尾白が“頼む”と、努力しますと日向はさっきからずっと赤みが引かない顔でぎくしゃくと頷く。そんな日向に悪戯の虫が騒いだ尾白が腕を掴んだままの手を日向の手首にまで滑らせ、指を互い違いに組んだ。尾白は自分が見たいもののためならば多少の恥や躊躇いは歯牙にもかけない。
こちらを見上げてきた日向に目を細め、言う。
「慣れるまでこうしてる」
日向は声にならない悲鳴を上げた。すっかり撃沈した日向を連れ、尾白は徳さんに前言撤回しなくてはと思う。二人の間で結ばれた手を揺すり、首輪よりこちらの方がよほど良いと考える。
それから窓硝子に写った自分達の姿、輪郭を見ていつも通り“糸が見えない”ことを確認する。他の者から現れては消える糸が、尾白と日向の周りには伸びていく糸も絡まってくる糸もない。この妙な能力に目覚めてから尾白が自分以外に糸が見えない人間に会ったのはこの後輩が初めてだった。
この不可思議な能力のことも、日向との関係も、この先まだどうなるかは未知数だ。それでもいつの間にか日向との関係をいつでも解消できるとは思わないし、思えなくなっている。
強制的に言うことを聞かせられるよりそちらの方がよほど手強いと、尾白はこっそり思うのだった。


***


日向はその日の帰り、雨月と卯月と共に店を見て回った。その目的は玉生や勅使河原を元気付けられるものはないかということだったが色々物色してみたもののついにめぼしいものは見つからず、店巡りは後日改めて本人達の意向を聞いてからにしようということになった。そのあと二人へよければ途中まで送ろうかと申し出た日向の紳士的な提案は積もる話があるからとどこぞのカップルかと思われるような密着度の二人にお断りされ、日向は叔父へのお土産にフライドポテトを買って帰った。雨月は元から対人距離が近い少女ではあるが、どうやら親友相手となるとほぼゼロになるらしい。卯月も卯月でご満悦というかむしろ自慢げな様子なので、需要と供給は噛み合っている二人だった。ちなみに尾白はバイト、矢田川は部活となり、雨月発案のぐるり店巡りの旅(日帰り)は惜しくも欠席という形になった。
それから家に帰った日向は叔父と一緒に家事をしていま夕食を食べ終えたところである。時刻は既に夜と言っても差し支えなく、日向は叔父が淹れてくれた茶を飲み、本日の夕食の改善点を専用のノートに書き込んでいく。千里の道も一歩から。尾白に食べてもらう料理にいつか応用できるかもしれないし、何より美味しい食卓は叔父と日向の活力と満足にも繋がる。
それから自分達の好みや冷蔵庫の中身、予算と事前の献立予定とを照らし合わせながら明日の分を決めていく。栄養バランスの方も考慮に入れていくとその兼ね合いが難しい。叔父の要望はいつ聞いても同じだった。
「僕は馬鹿舌だからねぇ。たまに芋が食べられればそれで……あっ、それにカップ麺もあればいいかな、うん。後は空翔くんが作ってくれたものなら何でも」
「叔父さん、何度も言うけどそれ誉めてないから。僕は不味いなら不味いって言って欲しいし、叔父さんには美味しくて体にいいものを食べてもらいたいんだから」
「ああいやいや、こりゃ参ったね」
叔父は甥に真っ向から切り返されて恐縮している。色白でぽっちゃりとしたフォルムのこの叔父は、その輪郭から大福を連想させる。いつもにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべており、実際見た目通り人が良く、そして気が小さかった。そんな叔父に目の前で小さくなられると日向の厳しく取り繕っていた態度も長続きはしない。仕方ないなあという気持ちになるのだ。
「叔父さんはどっちかというと子供舌じゃないかな」
「ああ、それは否定できないねぇ」
日向の態度の軟化にほっとして、にこにこといつも通りの表情になった叔父が答える。その際にできる笑い皺が日向の亡くなった父によく似ていた。
日向の父はこの人の兄だ。叔父とは反対に色が浅黒くがっちりとした体格をしており、良く言えば豪放磊落、悪く言えば大雑把な性格をしていた。にかにかと子供のような笑い方をする人で――ほんの少しだけ神無月と笑い方が似ていたかもしれない。母は細身ながらもしっかりとした――いや、あれはどちらかというとちゃっかりと言うべきか――父がこうすればよいといかにもお人好しな理屈を唱える傍ら、母が後でこっそり息子に世の厳しさを教えていた。
日向はいま自分達が暮らしている空間をぐるりと見回す。キッチンからは廊下が伸び、それぞれの部屋へと続いていく。ほとんどの日用品や家具は叔父が日向の意見を聞きながら一つ一つ揃えてくれたものだ。お互いに持ち寄ったものはそれほどない。洒落てはいないが生活感はあると思う。
叔父が日向を引き取った際に母の妹である叔母の紹介で越してきた2LDKのアパート。最初はどこか他人行儀に思えた内装も気付けば見慣れた景色の一部になっている。この空間は既に日向の“家”として機能し、同居する叔父は日向からすれば欠かせない“家族”になっていた。
そんな家族が視線を日向に固定したままにこにこと相好を崩すので、日向は思わず顔を押さえた。
「僕の顔に何かついてる?」
「いやそうじゃないよ。空翔くん、なんだかいい顔をしているから。これは何かあったなと推理を働かせてみたわけだね」
そう言ってやはりにこにこと人の良さそうな笑みを浮かべる叔父である。
強制的に聞き出しはしない。ただ物腰柔らかに傍にいてくれる。そんな叔父のふんわり包みこんでくれるような優しさを、今の日向が対人関係を築く上での一つの指針としていることを当の叔父は知らない。
しかし得意になっていた叔父はすぐに照れくさそうに頭を擦り、
「――と、いうのは冗談で、空翔くんは何かいいことがあると僕にお土産を買ってきてくれるだろう?今日も幸せのお裾分けがあったから、何かあったんじゃないかと思ったわけさ」
そんなことを白状した。指摘された習慣にまるで自覚がなかった日向が素直に驚きを表すと、うん実は空翔くんの行動にはそんな法則があったんだねと叔父が嬉しそうに言葉を重ねる。
「後は明日のお弁当のことを考えている空翔くんがいつにもまして嬉しそうだったから、っていうのもあるねぇ」
そこで日向が少し首を傾けて疑問を挟む。
「だったら叔父さんがさっき言ってた推理っていうのもあながち間違ってはいないんじゃない?」
「あれ?そうなるかな」
「そうなると思うよ、多分」
「そうかぁ、そうなるか」
うんうんと叔父が頷く。なんだかぼやけた会話だなあと、尾白とのやり取りをとぼけた代物だと卯月に断じられたことを知らない日向は思う。日向と叔父の会話は大体いつもこんな感じだ。
そんなふわふわした会話をしながら日向は叔父のこの先の行動を予測する。家事は分担して交代で回しており、今日の分はもうほとんど終わっている。叔父は小説家をやっており、二年前にそれまでの作風もジャンルもがらりと変えた。周囲からは急な方向転換に戸惑う声もあったようだが、叔父の新しい挑戦は概ね好感触で受け入れられ続編も決まっている。今その続きを鋭意執筆中だった。日向も読んだが、内容は男装した少女が活躍する王道ファンタジーもの。日向も続きを待っている読者の一人だ。
叔父のいつもの行動パターンからするに、彼はこれから部屋にこもって執筆作業に勤しむと思われた。実際に叔父に確認してみるとまさにこれからそうするという。それなら大丈夫だろうと判断した日向は覚悟を決めて口を開く。さすがに少し緊張した。
「いいことはあったよ。新しく知り合えた人とも仲良くなれそうだし、ちょっとぎこちなくなってた友達とも腹を割って話せた」
「それは良かったねぇ」
しみじみと言う叔父に日向は同意し、一呼吸置いて続ける。
「それと……僕、好きな人ができた」
日向が声量を落として告げた告白に叔父が目を真ん丸にして驚き、破顔する。感慨深そうに何度もそうかそうかと頷きながら甥からの報告を殊更嬉しそうに聞いていた。
このことは日向の胸の内に秘めて黙っておくこともできた。しかし大切な家族にも知っておいてもらいたい、のみならず認めて欲しいと願う日向の我儘だ。後で伝えられなかった後悔に苛まれるより潔くぶつかって砕けたい。当たられる方には申し訳ないと思うけれど。
「それで、驚かないで聞いて欲しいんだけど――僕、男の人が好きなんだと思う」
「へえ、そうなのか。それは知らなかったなぁ」
そうか日向は男の人が好きなのかと和やかに復唱し、叔父はにこにこ笑ってお茶を飲み干す。それから、それじゃあ僕は部屋に戻るよと言って席を立った。
日向は流しで残りの洗い物をしながら部屋を隔てた叔父の気配を探る。できるだけそちらに神経を集中させていると、どすんばたんと思ったより大きな音が聞こえてきた。日向は手を拭うと急いで叔父の元へ駆けつける。
「叔父さん、平気……っ!?」
叔父の部屋のドアは開いていた。そこから見えたのは机の前で何冊かの本と共に床に倒れている叔父の姿だった。この人は感情が大きく揺さぶられると時間差で動揺が現れる。その感情が大きいほど後から遅れてやってくるし、当惑も激しい。どうやら今回は混乱のあまり足を滑らせてしまったようである。
駆けつけた甥に叔父は倒れたまま言葉を発する。
「あっ、あきっ、っとく…っさ、さっきのはっ、どっ、どういう……!?」
まさに泡を食うとはこのことである。見たところどこかを強く打ったわけではなさそうだが心配は心配だった。日向は叔父の周囲から本をどかし、助け起こすべく手を差し伸べる。一瞬断られるかもと思ったが、叔父は日向の手をしっかり握って起き上がった。
「怪我はない?ごめんね叔父さん、僕が急にあんなこと言ったから」
「いや、僕の方こそ驚いてしまって……でも、冗談じゃないんだね?」
叔父はいつものにこやかさを消し、真剣な面持ちで尋ねる。日向も真面目に答えた。
「――うん。僕は言った通りの人間だよ」
「そうかぁ、うん……そうかあ」
はああ、と叔父は一層長い溜め息を吐き出す。叔父の方を真っ直ぐに見られない日向の肩にそっと温かいものが触れた。それは目の前にいる家族の掌で、もっと恰幅があって貫禄を身に付けたならきっとサンタの格好が似合うだろう叔父は甥に優しさを滲ませて言う。
「じゃあ僕は、空翔君につく悪い虫は女の子じゃなくて男の子の方を心配しなきゃいけないわけだね」
瞬間的に何か言おうとして、けれど日向にできたことは俯いて弱々しく呟くことだけだった。
「……叔父さんは、僕が嫌にならない?」
「びっくりはしたさ。でもねぇ、僕は兄さんの分も義姉さんの分も君の家族でいたいからね」
話してくれてありがとう、と深い声で告げられ、日向は恐る恐る顔をあげる。そこにいつもの穏やかな叔父を見つけて、ありがとう、と小さく返すに留まった。それ以上は必死に保っている自分の中の何かが溢れ落ちそうな気がした。よしよしと日向の肩を擦った叔父の手が離れていく。
そしてもうしばらくはこんなに驚くこともないだろうなあと腰をあげながら呟く叔父に、日向はもう少し打ち明けてみる気になった。尾白の悪戯好きが移ったのだと思う。
「でもね、叔父さん。悪い虫って僕の方だと思うよ」
途端に叔父が表情を引き締めて座り直す。
「……それは、どういう意味だい?」
「実はもう告白したんだ。振られたけど」
「はっは、何だそうかもう告白……ええっ!?しかも振られ……ええっ!?」
「うん、でもその人、僕が傍にいることを許してくれてね。一緒にいられるのが、すごく……その、嬉しくて」
そこでほんわり肌を染め、はにかむ日向はまさに恋する者の顔つきである。
「あっ、でも安心して。ストーカーはしてない。嫌がることも――してないと、思う」
「あっ、はい、そう……そう、なのか、うん……いやでも、これは……ううん?」
次々に打ち明けられる事実に何がなんだか分からなくなっている叔父に、日向はとうとう堪えきれず笑った。

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