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主に救われたあと、糸雨は屋敷に来て四日目には元気に歩き回れるようになった。
深刻な傷は主のおかげで跡形もなくふさがっており、残っていたのは軽いかすり傷だけだったからだ。
それでも血を流しすぎたために三日三晩は寝床生活を余儀なくされたのだった。

例の河童は毎日様子を見に来ては糸雨が回復したとみるや喜び、遊びに誘ってきた。
河童の好きな遊びは相撲だ。屋敷の庭で、河童は毎日のように糸雨に相撲勝負を挑んできた。
逃げてもすぐに河童に見つかるので、糸雨はそのつど嫌々ながら勝負を受けるはめになった。
見た目以上に力の強い河童に連日負け続けていた糸雨だったが、皮肉にもそのおかげで体力も筋力もみるみるついていった。

しかしまだ中学生の少年にとって、元の生活に戻れないというのはかなり信じがたい事実だった。
事後承諾で勝手にわけのわからない場所に連れてこられ、気味の悪い生き物たちとの共同生活を強いられたのだ。
命を助けられた恩などよりも、当初は主に対して恨みすら抱いていた。そしてなにより悲しくもあった。
行き場のない負の感情から、糸雨は主とその周囲の者に対して時に苛立ってわめき、時に無視を貫いて口をきかず、また頻繁に『家出』をした。

はじめのうちこそ療養のために一日のほとんどを睡眠で費やしていた糸雨だったが、体力が戻ると主から仕事を言いつけられるようになった。
屋敷や庭の掃除、蔵の整理、主の荷物持ち兼お供として山の見回りに付いていくこともあった。
本来なら学校で勉強や部活に打ち込んでいたはずなのに、この歳で働かされることに納得がいかない糸雨はことあるごとに反発した。
言いつけられた仕事を放り出して行う家出も、その手段のひとつだった。

かなり不思議なことに、狭間に来てから空間の捉え方が変わった。
トレッキング中は険しく苦しかった山道も、『糸雨』になってからは一歩踏み出すごとに十歩先ほど短縮して歩いているように感じた。
たとえるなら動く歩道を早足で楽々進んでいるようなものだ。これも糸雨に与えられた主の力の効果である。
だから家出も比較的気軽に行うことができたのだった。

都会の舗装道路を歩く感覚で山歩きが全く苦ではないので、家出中は豊かな自然をじっくり堪能した。それ以外に娯楽がなかったともいえるが。
けれども山の木々や草花、鳥のさえずり、機敏な動物たち、清涼な空気も流れる沢もなにもかも美しいということを、糸雨は初めて知った。

山中のあちこちに潜んでいる気持ち悪い生き物たちも、主の力のおかげか、一人でいる糸雨に対し敬いつつ物珍しげに話しかけてくる。
糸雨はしばらく気味悪がっていたものの、次第に興味がわいて相手をするようになった。

糸雨は狭間の住人たちから様々なことを学んだ。
彼らは実にたくさんのことを知っている。山の知識に天候の読み方、歴史の裏側や、妙に哲学的なことを話す者もいた。
騙されたり驚かされることも多かったが、かえって耐性がついたともいえる。

ところが、山中は自由に動き回れども山の外へはどうしても行かれなかった。
いつまでも木々の景色が続いて、同じところをぐるぐる巡っているようだった。
境目を越えてしまったというのはこういうことなのだと、糸雨は身をもって実感した。
そうするとまた、どうしようもない憤りやままならない苛立ちが湧く。そして心許なさも。

糸雨が家出をしてはそんな風に心細くなった頃、主はいつでもどこからか姿を現した。
ときに糸雨が「帰りたくない」と言えば主も帰らず傍にいる。やがて疲れて腹を空かせた糸雨を屋敷に連れ帰る、ということを何度も重ねた。
実のところ糸雨は『元の生活』の思い出が希薄であるので、主への恨みつらみもそこまで長続きしなかった。
いうなれば幼稚な試し行動のようなもので、一年ほどはそうやって主を振り回した。

しかし糸雨がそんな態度を繰り返そうと、主はそれほど気分を害していないようだった。
常に主人らしい尊大さで接し、決して糸雨を宥めたり媚びたりしなかった。むしろ彼は少年のわがままを面白がっていたふしがある。


――糸雨が屋敷に居候をはじめて一年も過ぎた頃、彼の主への態度が変わるきっかけになった『ある出来事』が起こった。


梅雨時のある夜、糸雨はなんとなく眠れずに布団を抜け出した。
昼間降っていた雨は夕暮れ前に上がり、あたりは未だしっとりと濡れたままで、少し肌寒く感じる夜だった。

糸雨は、主からひとつだけきつく言い含められていたことがある。それは「夜間は屋敷の敷地外に出てはならない」ということだ。
理由を訊けば、「おぬしにはまだ早い」と言うばかりだった。
その理由に関して糸雨はあまり真面目に考えていなかった。言われずとも夜になれば気絶するように眠ってしまうからだ。
慣れない狭間暮らしで一日の終わり頃には目を開けていられず、全身が鉛のごとく重くなる有様だ。
それに、昼間は出入りが自由な屋敷の門も、夜間は屈強な門番が立っているので外出など到底現実的に思えなかった。

けれどだんだんとこの暮らしに馴染んでくれば、目覚めている時間も長くなる。
糸雨はもともと以前は夜更かしが常だったのだ。
すっかり目が冴えてしまったこの日は、他にすることもなく寝巻き姿で庭に出た。
屋敷の敷地は塀に囲まれているもののかなりの広さがある。庭を散歩するだけで小一時間過ぎてしまうほどだ。
そうしてぶらぶらと夜の庭を歩き回り、池のほとりにさしかかった時、糸雨は驚きに声を上げた。

「うわ、すごい……!」

そこには無数の蛍が宙に舞っていた。
本やテレビでは見たことはあったが実物を見るのは生まれて初めてだった。しかもこんなにたくさんの数を。
現代ではほとんど見られなくなった景色も、狭間では当たり前のように存在している。

暗闇に舞う小さくも鮮やかな光は、弱まったり強くなったりを繰り返しながらふわふわ漂っている。
この一年余り不思議な光景をいくつも目の当たりにしてきたが、この幻想的な景色には敵わないと糸雨は思った。
なるほど蛍が風物詩として昔から人々に愛されてきたわけである。

糸雨はしばらくその場に佇んでいたが、ふと暗闇の中に動く影を見つけた。
屋敷仕えの誰かに見つかれば、夜半に出歩いていることを咎められるかもしれない。そう考えてとっさに紫陽花の陰にしゃがんで隠れた。
息を殺してその影の動きを注意深く見守る。

月明かりの下にそれが来た時、影の正体は主であることが判明した。

糸雨はなんとなくホッとして首を伸ばした。急に飛び出していって彼を驚かしてやろうかとすら思いはじめる。
ところが主の様子に妙な違和感を覚えた。
彼はいつもの着流し姿ではなく羽織袴のかしこまった装いで、そのわりに髪は結わず全て下ろしている。
蛍の飛び交う中、背筋を伸ばして慎重な足取りで歩く様は、これから公の行事にでも参列するのか、あるいは婚礼に向かう婿のようでもあった。

普段の気安い主とは一変して厳かな、そして端麗な姿に、糸雨は畏怖の念を抱きながらも見惚れてしまった。

主は瞬く間に母屋から離れていった。てっきり外出かと思えば門とは逆方向に進んでいる。
彼の動向がどうしても気になった糸雨は、遠目に見つつじりじりとあとをつけた。主に気づかれたが最後、本当に寝床に連れ戻されてしまう。
なにより少年にとって夜半の尾行というのはスリルがあり、少し興奮もしていた。

主はやがて途中に設えられた竹垣の小門をくぐり、小ぢんまりとした茶屋の裏側に回った。
そのまま建物の裏側にある小庭を横切り、木々に埋もれた途中で足を止める。
糸雨も建物の陰に体を縮こまらせてこっそりと彼の様子を窺った。

そこには二本の背の低い石灯籠と、その間に挟まれるようにして同等の高さの岩がある。
主が口を窄めてフゥと軽く息を吹くと、ふたつの灯籠に青い灯がついた。
次に彼は片手を伸ばし、岩にぺたりと掌を押し付けたのだった。
すると次の瞬間、彼の姿は陽炎のように揺らめいた。直後にその場から主が掻き消える。

しばし硬直して穴が開くほど見つめていた糸雨だったが、消えた主が戻ってこないことを訝しみ、しゃがませていた腰を伸ばした。
主の不可思議な業はこれまで何度も目にしていたので、今のもそのうちのひとつだろうと思った。そう思いつつ、それでもおそるおそるその場所に近づいてみた。
石灯籠は妖しく青い灯を揺らめかせている。
その明かりに照らされた間の岩も、雨上がりに濡れているせいで余計に青く光った。

(なんだろ、これ)

夜闇のなかで粗野な黒い岩に見えたそれは、前面に赤い文字のようなものが彫られていた。
それは字のようで絵のようでもあり、とにかく糸雨には判読できない種類のものだった。そうなるとただの岩ではなく石碑に見えてくる。
主はここに手を当てていた。好奇心に駆られ、糸雨も同じようにしてみようと思った。
それは本当に気軽ないたずら心だった。

石碑に掌を当てた瞬間――糸雨は、暗い森の中に立っていた。


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