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糸雨が『屋敷生活』の始まりを思い返しつつ歩いていると、やがて目的の蔵に着いた。
傘を閉じて漆喰壁に立てかけたあと、土蔵の重い観音扉を片手で開ける。中に入ると扉はひとりでに閉じた。
結局、地面で跳ね返る雨粒を防げずに、上げた袴裾も素足に履いた黒塗の下駄も川にでも浸かったかのようにずぶ濡れになった。

糸雨は掃除用具を蔵の中にある棚に置いてから、顎の下を手の甲で拭った。
雨の湿気と初夏の気温が合わさってひどく蒸し暑い。額から汗が次々浮き出て、こめかみから首までじっとり伝っていく。
それでも蔵の中はいくらか涼しく感じた。

蔵内の小棚の上に置かれた一本の蝋燭に向かって糸雨がフッと軽く息を吹きかける。
すると、蝋燭に火が点くと同時に、壁に設えられたおびただしい数の提灯が順番に火を灯していった。自動的に蔵の奥の方まで橙色に染まる。
糸雨に与えられた『主の精気』は、人間では到底為し得ない、このような不可思議な芸当を可能にした。
もっとも、糸雨の中の精気は主曰く「ほんの少し」であるので、出来るのは簡単なことばかりだが。
火が灯ると提灯は真ん中あたりからぱっくり割れて、人の口のように開閉しつつ小声で一斉に喋り出した。

――「糸雨だ」「糸雨が来たよ」「火をおくれ、火を」「主様はどこだ」「雨はいやじゃ、湿気てかなわん」「糸雨、鼠があたしを齧るのよ」「主様ぁ」「糸雨」

これらの提灯たちは、かつてこの山の中に打ち捨てられた、あるいは置き忘れられた提灯である。
古い時代のものから比較的新しいものまで様々だ。
この蔵は、こうして山中に残された物を集めて収めているのである。
今の時代ならLEDのポケットライトあたりが明るくて小さくて便利だが、妖化するのは時を経た古物ばかりだ。そして手作りの物がなりやすい。
付喪神というものが実在することを、糸雨は狭間に来て初めて知った。
主や糸雨が使役できるのはこういった者たちに限られる。

「糸雨、鼬がまたガラクタを拾ってきたぞ、糸雨」

黄ばんだ弓張提灯の近くを通りかかったとき、一張が愚痴のように告げてくる。
糸雨は「はいはい」と適当にあしらって掃除用具を手に取った。
ここに来てはじめのうちは喋る提灯が恐ろしくも珍しくて逐一応対していたが、キリがないのですぐにまともに取り合うのをやめた。

棚の埃と蜘蛛の巣を払い、床を掃くだけでも相当に時間がかかる。
しかも提灯の明かりでは薄暗く隅々まで見えないから一苦労である。
ときどき提灯たちの話し相手をしてやりつつ、蔵の中をひと通り掃除した。
そうしたら次は物の整理だ。これが一番厄介である。
蔵の壁際を見ると、さきほど提灯の一張が告げたように鼬が集めてきたらしき物がうず高く積んであった。
それらがゴミ山にしか見えない糸雨はげんなりとした。

狭間の屋敷に出入りする者たちは、山中に捨てられているものを拾ってきては屋敷に持ち込む。
しかしこの蔵は主と糸雨以外の者は自由に入ることを許されていない。
となると彼らは、拾ってきた物を通風用の格子窓からポイポイと中に投げ入れるしかないのだ。
結果、窓下の壁際にゴミ山が出来上がるというわけである。

しかもそれは山の美化のためではなく、単に興味のある物のみを選んで気まぐれに拾ってくるだけときている。余計たちが悪い。
とはいえ、中でも多いのは紙類だ。
書籍雑誌新聞の類を不法投棄する輩はいつの時代も存在していて、主が特にそれらを好んでいるからか、出入りの者どもも積極的に集めてくる。
主はそれらを読んで時世の情報を取得している。かといっていつもあるわけではないので、得ている知識が極端だ。
なので主の言葉遣いや服装もちぐはぐになり、そういうところが奇妙に見える一因なのだった。

こんもりとしたゴミ山に近づいたとき、糸雨はふと、ある物に目を留めた。

「……これは」

腰を屈めて持ち上げてみると、それは何世代か前の型のスマートフォンだった。
糸雨もかつて同じような物を持っていたはずだった。
だが、九年前に持っていたはずの自分の荷物の行方を知らない。川に流されたか、獣に持っていかれたか、土に埋もれたかのどれかだろうと主は言っていた。

一瞬自分のスマホが見つかったのかと期待したが、手に取ってみると色が違ううえ、見知らぬケースに嵌まっていたのでがっかりした。
画面に大きなヒビが入っている。ためしに電源ボタンを押してみても画面は真っ黒なままだった。
元の持ち主には気の毒だが壊れているのだろう。
そもそも電源が付いたところで狭間に電波はないので、通話もインターネットもできないのだが。

「あーあ……」

意味もなく独りごちた糸雨は、白けた面持ちでスマホをゴミ山に戻した。
次に、なんとなく手に取ってみた雑誌をぱらぱらと開いた。
雨風に晒された末に汚れて波打っている紙面には、女の裸体の写真がいくつも載っていた。
こういった卑猥な雑誌も山の中には何故か多く捨てられている。
糸雨も心身ともに健康な男であるので、ついそれに釘付けになった。

こういった本は掃除中に何度も目にしているが、読んだあとはただ棚に並べておくだけでそれを主に言ったことはない。
二人の間で話題にはしていないが、確実に主も見ているのだろうと糸雨は考えている。
主はヒトではないから、煽情的なポーズをとる豊満な女の裸を見て彼がどういった気持ちになるのかなど、糸雨には見当もつかなかった。
ところが、かくいう糸雨も糸雨で複雑な心境にあった。なぜなら――。

「糸雨」

格子窓の向こうから、良く通る涼しげな男声が響いてきた。
突然のことに心臓が一気に跳ね上がり、糸雨は思わず雑誌を取り落とした。慌ててそれを爪先でゴミ山に戻す。
手に竹箒を持って怠けていない風を装ってみるも、己がひどく滑稽に思えた。

「は、はい!主様。何でしょう」
「終わったか?」
「あ、いえ、まだです。何か他の用事でも?」

鼓動がどくどくと速く強く脈打っているのに冷静ぶって返す。
人の声を真似るいたずら好きの妖もいるが、主の声は誰も真似できない。
蔵の外にいるのは主本人に違いないので、糸雨は腫れぼったく火照っている顔を片手で覆った。
すると、蔵の観音扉が両側に軽々開いた。騒がしかった提灯の声が一瞬ピタリと止む。続けてさらに小さい声で提灯たちが囁き合いはじめた。

思った通り、そこには着流し姿の主がいた。
糸雨が今朝結った髪は後頭の高い場所ですっきりと纏まっており、湿った熱気の中ではひときわ爽やかに見えた。

「ずいぶん遅いのでな、蔵で迷子にでもなっておるのかと思うたわ。杓子女が茶菓子を用意しているゆえ、一息入れるがよい」

主はおそらく、その茶菓子を自分が早く食べたいから急かしに来たのだ。
糸雨は目を泳がせながら曖昧に返事をした。
颯爽と近寄ってきた主は少しも濡れていない。彼ほどの存在になると、山中の雨すら彼を侵せないのだ。

「どうした、糸雨」

わずかに見上げてきた主と目が合って、糸雨はますます言葉に詰まった。
自分はいつ頃、彼の背を追い越してしまったのだろうか。いつ頃から不必要に彼のことを隅々まで見つめてしまうようになったのか。
糸雨の心の中にそんな思いがとりとめなく浮かんでは消えた。

「……俺、冷たいお茶が飲みたいです」
「私もそれが良いと思うておった。かように蒸した日は内から冷やしたくなるものよ」

汗を一つもかいていないのに、彼も暑いと感じているのだろうか――糸雨はそんなどうでもいいことばかりを考えた。
蔵の外に出ると、主はそのまま晴れの日と変わらぬ調子で雨の中を歩き出した。
雨粒は彼に当たると蓮の葉のように弾かれ、玉となって地面に転がり落ちる。
透明な雫がころころといくつも落ちていく様は面白くもあり、なにより美しく糸雨の目に映った。
やや遅れて糸雨も番傘を開き、彼のあとについて歩いた。

「そうそう、菓子は薯蕷饅頭だそうだぞ。杓子女の作るあれは美味い。おぬしも好きであろう、糸雨」

振り返らずに話すのは主の癖だ。主人気質であるので配下を従えて歩くのが当然なのだ。
前を行く主の、高く結った髪がさらさらと揺れる。油を刷いたように雨雫を弾く黒髪は、揺れるたび滑らかに光り艶めく。
糸雨はそれを見つめながらまぶしそうに目を細めた。

「……はい、好きです」

糸雨の返事に満足げに笑った主は、心なしか歩調を緩めた。


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