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糸雨は順調に単位を取得しつつ進級していった。
就活など一切するつもりがなかったので、日々ひたすら勉強にバイトにと打ち込んだ。

特に夏季は毎年忙しかった。
大学は専攻の演習で夏休みのフィールドワークが必須であったし、後輩らのいざこざに巻き込まれるうえ、加えて仲介屋も繁忙期に入るからだ。

盆の時期はあの世とこの世が近くなるゆえに、ヒトの意識も異界に向けられると、狭間の者共も動きが活発になるのだ。特に物の怪が。
境界を越えるまではいかずとも、現世において彼らの姿が見えやすくなり、彼らと接触しやすくもなる。
すると、自ずと怪奇現象にも遭いやすくなるのだ。

この時期の異界越えは容易に思えて、一方で危険だとも考えられた。
物の怪の勢力が盛んな時なので、どこへ引きずり込まれるか分からないからだ。
飛んで火に入る夏の虫、とはよく言ったものである。

とにかく夏休みの間はほとんど家に帰れず、一色の助手として全国を駆けずり回るはめになった。それこそ高校生の時の比ではなく働かされた。
けれど、そのついでに天狗の山の手懸かりを探せるのはありがたくも思った。

八荒丸を連れて、方々に行くたびに情報収集を繰り返す。
天狗の棲み処にはその一族の天狗しか入れないのだから、強固な結界か目眩ましがあると考えられる。それを簡単に突破できるとは思えなかったので、地道に捜し続けるしかなかった。
それが天狗伝説の残る著名な山とは限らない。星の数ほどある山々のうち、せいぜいいくつかの当たりをつける程度にとどまった。
かわりに各地に現世と狭間両方の人脈と、『道』の木札が徐々に増えていった。



そうして瞬く間に時は過ぎ、三年次の十月半ばのことだ。

その日の昼下がり、糸雨はやや焦り気味に電車を降り、改札を抜けると小走りに駅前通りを急いだ。
このあと行われる講義に向かっているのだが、時間に遅れそうになっているのである。
というのも、その講義は本キャンパスから電車で三十分かかる場所に建つ別キャンパスで行われるのだ。しかも水曜日の四限という中途半端さである。
『国譲り地方における祭祀と習俗』という非常にマニアックなその講義は、二、三年の後期にしか開講されておらず、この期を逃すと受講できない。

よって水曜においてはその移動時間を考慮して、二限に本キャンパスで必修の授業を受け、ゆっくり昼休みをとりつつ空いた時間はサークル棟や図書館等で過ごし、余裕をもって別学舎へ向かう、というスケジュールで動いていた。
ところがこの日は部室で友人や後輩らと話が盛り上がってしまい、気づいたときにはかなりギリギリの時間になっていた。
急ぎ電車に飛び乗り、それでもなんとか開始時間には間に合いそうだった。

秋晴れの下、からんからんと下駄を響かせて早足で地面を蹴る。

ようやく構内に入り、建物は見えどもなかなか辿り着かない長い歩道を行く。
すると、背後からもっと慌ただしい足取りで糸雨を追い抜かしていく者があった。
糸雨と同じく講義に遅れそうになっているのか、はたまたせっかちな性分なのか。
歩幅が小さいその者は背も低く、長めの髪をポニーテールに結び、目立たない色合いの服を着た女子学生だった。
身長と歩幅の差か、追い抜かされたわりに彼女との間がそれほど開かない。
彼女の後ろ姿を追いつつなんとなく眺めていると、彼女は、教室棟の入り口を目前にしてつんのめった。

「きゃっ!」
「うわ」

溝か何かにつまずいたらしく、彼女が前のめりに地面に倒れる。
一部始終を見ていた糸雨も思わず声を上げた。すかさず大股で彼女に走り寄りながら声をかける。

「怪我はありませんか?」
「い、いえ……。大丈夫です、すみません」

背後から突然声をかけられたことで彼女はぎょっとして、直後に顔を赤らめつつずれた眼鏡を直した。転んだ瞬間を目撃されたことが恥ずかしいようだ。
彼女は派手に転んだものの、長袖の服とジーンズを履いていたのが幸いして、見た限りではひどい傷は出来ていないようだった。

糸雨は捻挫の有無を確認するために屈み込んだ。
足のあたりを見たそのとき、細身のスニーカーを履いたその足に小さい何かがしがみついているのが見えた。――物の怪だ。
転倒の原因を察した糸雨は、さりげない仕草で物の怪を手で追い払ってやった。

糸雨に促されて離れていった影を見送ってから、足を痛めたのかまだ立ち上がれない様子の彼女に代わって地面に散らばった物を拾う。
ハードカバーの本二冊に文庫本一冊、ペットボトルの緑茶。
そして一番遠くまで飛んでいったトートバッグを拾おうとしたその時、知らず顔をしかめた。

なんとも形容しがたい異臭がバッグから放たれている。鼻の奥にべっとりこびりつくような生臭さだ。
あまりの悪臭に、拾おうとした手を一瞬引っ込めた。
バッグの中に捨て忘れた生ごみでも入っているのかと訝しんだものの、人の持ち物をあれこれ詮索するべきではないと思い直し、無言で拾い上げた。

持ち上げた拍子に、開いたバッグからはみ出していた小物がぽろぽろと零れ落ちる。それらを見た糸雨は再び「うわ……」と声を上げた。
ペンケースやポーチとともに掌に収まるサイズの小袋が落ちている。
光沢のある薄紫の布地の袋は、水色のリボンで結ばれ閉じられていた。一見して可愛らしいそれは、匂い袋というものだろう。
けれどそれは見た目とは裏腹に、澱んだ邪気を内側から放っている。これに、糸雨は覚えがあった。

(呪詛だ……)

瞬時にうなじが粟立ち、背中にひと筋の冷や汗が流れる。

以前一ツ目鬼が「一目瞭然」と言っていたが、まったくその通りだ。かつての自分は、何故これを分からなかったのかと思うほどに。
普段目にする邪気とはまるで別物だ。人工的な不自然さがある。言うなれば不気味の谷現象のような、人間に近いロボットに抱く嫌悪感に似ている。

とはいえ、匂い袋から放たれる邪気は強くなったり弱くなったりと安定しない。強い穢れもなく、糸雨に掛けられていた呪詛とは種類が異なるのかもしれなかった。
それでもひとつ言えるのは、本式の術者による『本物』であるということだ。

糸雨が匂い袋を睨み付けたまま固まっていると、講義の開始を告げる鐘が鳴った。
開始時間から五分以内に教室に入っていなければ欠席扱いになる。
次の講義は出欠席自体は成績に響かないが、リアクションペーパーとレポート提出が評価の十割だ。一回でも逃すのは得策ではない。
それに今日の内容はシラバスの通りなら、最も聞きたいと思っていた回でもある。

逡巡の末、糸雨は、トートバッグと匂い袋を拾い上げて彼女の元へと戻った。
糸雨が近づくと、すぐさま今度は彼女の肩に別の物の怪がしがみついた。陽の高い時間帯ゆえに脆弱な物の怪ではあるが、それでも彼らが匂い袋に引き寄せられているのは明白だった。
この袋の中にはおそらく写真か、爪や髪など彼女を示す物が仕込まれている。
糸雨は、肩にのしかかる重みでへたり込む彼女に手を差し伸べつつ、できる限り穏やかに声をかけた。

「――ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいですか?」

笑顔を作ったものの、目が笑っていない自覚はあった。

もう一度さりげなく物の怪を追い払ってから、彼女を伴って落ち着いて話せる場所へと移動した。
彼女も糸雨と同じく四限に授業があり急いでいたそうだが、服がひどく汚れたことと足を軽く捻ったことで諦めをつけたらしい。
「少し休めば歩けるようになると思うので」と言うので広場のベンチに彼女を座らせ、糸雨はその傍らに立った。
真面目そうな彼女の警戒を解くために「俺は、史学三年の向坂(さきさか)といいます」と学生証を見せれば、案の定、彼女は肩の力を抜いた。
彼女は二年生で、このキャンパスを拠点とする教育学部の学生だということだった。関と名乗った。

「変なことを聞くようですけど、最近、さっきみたいに転びやすくなったり、体に不調が出たりしてませんか?特に夜に」

糸雨が問うと、関はぽかんとした。
今しがた見知った男に――しかも着流しに黒足袋下駄姿という普通ではなさそうな男に、急にそんなことを訊かれる筋合いがないとばかりに、あからさまに不審げな目が糸雨に向けられる。
たちの悪い勧誘に取られかねない問いだ。糸雨も快い返答を期待していたわけではなかったのであっさりと話題を変えた。

「ああ、すみません。今のは別に他意はないです。じゃあ他のことを聞きますね。……この匂い袋はあなたの手作りですか?それともどこかで買ったものですか?または、どなたかからもらいましたか」

先刻荷物を拾った際に、バッグは彼女に返したが匂い袋だけは袂にしまいこんでいた。
取り出して掌に乗せて関に見せれば、彼女は眼鏡越しに目を見開いて首を傾げた。

「そのサシェは、あの、友達からもらったものです」
「いつ?」
「えっと、一週間前です。先週私の誕生日だったんですけど、お祝いにって、その子がくれたプレゼントの箱の中に一緒に入ってたんです。すごくいい香りで気に入ってるんで、いつも持ち歩いてるんです」
「そのお友達とはよく会いますか?仲がいい?」
「はい。高校から一緒の子だし、学部は違いますけど同じ校舎なので。一緒にご飯も食べたりするし仲はいいと思います。……あの、それが何か?」

近しい人間が、贈り物と称して呪詛を渡す。糸雨のケースとかなり似た手口だ。
その友人とやらが術者ということはまずないだろう。もしそうだったらこんな回りくどいことはしない。となると十中八九『呪い代行』だ。
一週間前ということは、当該人物もおそらく呪詛を手に入れて間もないはずである。

考え込んだところに戸惑ったような視線が向けられて、糸雨は優しい笑みを返した。

「いえ、突然色々訊いてすみませんでした。実は俺、お香とかが好きで趣味で香りのことを調べてるんです。この香りの組み合わせだと、交感神経を刺激して活発になる効果がある反面、ずっと嗅いでいるとかえって疲れが溜まってしまうんじゃないかと心配になって。ほら、さっきも急ぎすぎて転んでたでしょう?」

すらすらと口から出まかせを並べ立てる。現世に戻ってきてからというもの、すっかり面の皮が厚くなってしまった。一癖も二癖もある仲介屋で長年働いているせいだ。
それに、言ったことはまったくの嘘というわけでもなかった。
香に関しては、着物に焚き染める香の種類や稀少な香木など主からほんの少しだけ教わったことがある。主の纏う香りしか覚えられなかったが。

とはいえ少々強引だったか。糸雨は内心ヒヤヒヤしたものの、関の方は糸雨の言葉を素直に受け取ったらしかった。
優しげな美男子に落ち着いた喋り方で言い切られたら、信じたくなってしまうものである。

「たしかに……夜になると体が重いっていうか、よく眠れなくて最近すごく疲れてる感じがします。集中力も続かないし、ぼーっとしてよく人とぶつかったり転んだりするし」
「なるほど。だったらこれは俺が預かりますね。それとよかったら、そのお友達に会わせてもらえませんか?このサシェに興味があるので」

他人の持ち物、しかも贈り物を横取りするなど常識的にありえないが、これは呪詛だ。
しばしぼんやりしていた関だったが、糸雨の言葉で正気になったらしく匂い袋を手放すことにさして疑問を抱かなかった。縁が薄いうえにかなり弱い呪いのようだ。
バッグからスマホを取り出した彼女は、さっそく当人にメッセージを送った。が、すぐに既読がついたにも関わらず、その返答は芳しくないものだった。

「すみません。あの子、もうバイトに行っちゃったみたいで……」
「バイトって何の?」
「たしかカフェって言ってました。夏休み中に始めたばっかりだとかで、私も場所とか詳しく聞いてないんですけど」

別の日に改めて紹介の場を設けてもらう選択もあっただろうが、呪詛の手懸かりを掴んだ今、そう悠長にしていられなかった。
なぜなら呪術師はすぐに闇に溶け込んでしまう。尻尾を掴むなら、即行動に移さねばならない。

「バイト先の住所、今すぐその子に聞いてもらえますか?」

食い入るように言った糸雨に面食らいつつも、関はその通りにしてくれた。


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