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元同級生は呪詛については全くの無知だった。すると、怪しいのは呪符を売った呪術者の方である。
一色によると、呪術を生業とする者らはだいたいにおいて顧客が決まっており、そのへんの一般人など相手にしない。
だが、闇に隠遁する呪術師も時代に即した金儲けを考えるらしく、時折そうやって何も知らぬ一般人相手に呪詛を売りつけることがあるそうだ。
大抵はそれらしい模造品だが、『本物』が混じっていることもある。元同級生はそれを引き当ててしまったというわけだ。

彼の証言をもとに、糸雨と一色は『呪いの御札』についての通販サイトを検索してみた。しかし一件もヒットしなかったのである。
フリマサイトではなく個人運営のサイトとのことだったが、IT方面に詳しい従業員が調べてもその痕跡すら見つけられなかった。
現物を確認しようにも注文したのは数年前であり、住所や名前が記された包装類はとっくに捨てられている。それらも偽名だった可能性が高いが。

そこで糸雨が説明した呪符の詳しい形状などを聞いた一色は、途端に青褪め、「二度とその呪詛に関わるな」と厳しい顔つきで警告した。相当まずいものだと判断したようだ。
裏の業界で生きている一色は呪術について何かを知っているようだったが、糸雨にはそれ以上一言も喋らなかった。


――そうこうしているうちに時が経ち、糸雨は高校三年生になった。
この学年になるとさすがにフラフラしてもいられず、大学受験に向けて本格的に学業優先にした。
アルバイトの時間を少なくし、事務所に足を向ける頻度を減らしつつも異界越えと天狗について調べ、一色には内緒で呪術についても少し調べた。

夏頃になると、糸雨は妙な引っかかりを感じるようになった。
『誰かに見られている』――どこからか、強い視線を感じるのだ。
とはいえその視線も外にいる時だけだったので、いつものようにどこかの怪異がこちらを意識しているのだろうと、その程度に捉えていた。
早朝のランニング中に例の公園を通るのだが、そこだと特に視線を感じた。睨みつけるような、ピリピリと肌に刺さる視線だ。
しかし、朝から活動しているのなら物の怪ではないだろう。そう考えて気楽にやり過ごした。
向こうから手を出してこない限り、こちらもできるだけ意識を向けないようにする。それが、糸雨なりの処世術だ。

ちなみにこの早朝のランニングというのは、高校生になってから続けている糸雨の日課だ。
狭間にいた頃みたいに毎日の山歩きが出来ないので、せめてもの体力づくりとして欠かさず行っているのである。
やがて来る主との再会時に、貧相な見た目になって彼にがっかりされてはたまらないので鍛えたいという気持ちも大きかった。
中学のときのように運動部という手も考えないでもなかったが、土日が潰れるバイトのため端から部活には入らなかった。
そのかわり、ランニングと併せて剣道はじめ武道で個人的に鍛練していた。何しろ一色が古武術の師範代なので、その点でも彼は師匠だった。

視線の件については実害もないので、糸雨はそれほど気にせず日常生活を送った。
受験を見据え着々と対策を練りつつ狭間への思いも募らせているうちに、あっという間に半年が過ぎていったのだった。


そして、満を持して迎えた受験当日――。
母親にあれこれと心配されながらも家を出た糸雨は、駅に行く前にいつもの公園に寄った。
糸雨は今や神頼みというものを全くしないので、験担ぎとして縁深いそこに足を向けたのだ。

真冬のキンと冷えた空気が清々しく、自然と身が引き締まる。そうなれば試験前には付き物のうっすらとした不安が、程よい緊張感に変わっていった。
四年前に現世に戻った林の中で静かに佇む。心の中で、境界を隔てた主に向けて「必ず合格します」と誓った。

その時、真っ黒な鴉が飛んできて、鋭い声で鳴きながら頭上の枯れ枝を蹴った。
鴉は吉兆であるのでどこかの神が激励してくれているのかと思った瞬間、「ギャッ!」という鳴き声とともに枝の上から何かが落ちてきた。
それは、糸雨のつむじに直撃した。

「なっ……えっ!?」

雨は降っていない。そもそも落ちてきたのは水滴ではなかった。テニスボールほどの大きさと重量を感じた。
痛みはなかったもののそれなりの衝撃はあり、驚いている間に足元でドサッと音がした。下を向くと、小さい塊が目に入った。

「す、雀……?」

足元に転がったのは、薄汚れた小鳥だった。赤褐色の頭部に、首は襟巻のように白く、緑がかった薄茶の羽、灰白の腹をしている。
掌におさまるくらいの大きさの小鳥は毛艶も悪く痩せ細り、目を閉じて横向きにプルプルと痙攣していた。
慌ててしゃがみ込めば、小鳥が嘴を開いた――「……はら、へった……」と。

妖の類だとただちに判断した糸雨は、とりあえず小鳥をタオルハンカチで包んでリュックの中に入れた。妖なら多少乱暴に扱っても構うまい。
それにしても、神使や式神以外で、現世でこうもはっきり人語を操る生身の怪異とは珍しい。というより初めて会った。
かなり混乱していたが家に引き返すほどの時間も余裕もなく、糸雨はリュックに小鳥を忍ばせたまま試験会場へと向かった。

リュックの中の鳥が暴れ出したりしないかとヒヤヒヤしつつも、幸いこの妖は狭くて暖かいリュックの中が気に入ったとみえて図太くもずっと眠っていた。

試験の一日目を終えたその足で一色の事務所に向かう。
さすがにいきなり正体不明の怪異を自宅に招き入れるような浅はかなことはしない。一色にもそれは強く言い含められていた。

糸雨はノックもなしに固い表情で室内に入った。足を踏み入れると淹れたてコーヒーの匂いが香り高く鼻腔に広がる。
並べられたファイルや古い書物、最新型のパソコンに謎の民芸品と市松人形などが所狭しと置かれて雑然とした室内は、電話が鳴ったり不思議な鈴の音が響いたりといつ来ても異様な雰囲気だ。
事務所には折良く一色がおり、彼は糸雨の来訪に気づくと書類を机に置いて、電子タバコ片手にニッと笑った。
一色はしばらく前から殊勝にも禁煙をはじめたらしく、近頃は会うといつでも電子タバコだ。

「おう坊主!首尾はどうでぇ。明日も試験あんだろ?こんなとこで油売ってていいのかよ?ん?」
「師匠……俺、変なもの拾っちゃったんですけど」
「あ?変なもん?」

糸雨はリュックからタオルに包まれた小鳥を取り出すと、一色に見せた。
他の従業員らも集まって興味津々で覗き込んでくる。「なにこれ可愛い!」と女性従業員が黄色い声を上げた。
一色は電子タバコを片付けて糸雨の手の中の鳥をまじまじ見つめた。

「鳥?雀?いや違ぇな……鳶か」
「トビ?こんなに小さいのにですか?」

言われてみれば、尖った嘴の先が下に向けてちょっぴり丸まっている。趾(あしゆび)も太く爪が鋭い。羽は雀より特徴的な縞模様だ。顔つきも、よく見れば猛禽らしさがあった。
それにしてもこんなに小さくて色合いが雀らしい鳶など見たことがない。
糸雨は皆に朝の顛末を話して聞かせながら、事務机の上にタオルごと鳥を寝かせた。

「こいつ、喋ったんですよ」
「鳴き声じゃなくて言葉をか?」
「そうです」
「妖か」

一色の言葉に糸雨は即答できなかった。
狭間ではそれこそ日常茶飯事だったが、現世でそういう事例があるかどうかすら定かでない。

「やっこさん、何てェ言った?」
「『腹減った』……です」

そう言うと、一色と従業員らは一瞬沈黙した。直後に室内が爆笑の渦に飲み込まれる。
突然の大きな笑い声に驚いたのか、鳶がやにわにパチッと目覚めた。
目は透明感のある琥珀色をしていた。普通の鳶ではないこと確定だ。珍しい色味に少し高揚しつつ糸雨は屈んで鳶を覗き込んだ。

「目が覚めたか?お前、どこから来たんだ?見たとこ怪我はなさそうだけど、腹が減ってるなら……」
「その方!我に対しそのぞんざいな口の利き方はなんじゃ!無礼者!」

第一声、甲高い少年声で鳶がそう喚いた。
瀕死だと思っていたのにあまりにも威勢の良い言い方だったので、糸雨は驚いて固まった。
すかさず一色が咳払いをして「失礼」と前置きする。

「あーその、どこの若様か存じませんがね、倒れたお前さんを保護してやったこいつに、その言い草はないんじゃないですか?」
「我を助けるは下々の者なら当然じゃ!その方、頭が高いぞ!」

主とはまた違った尊大さで、若干の懐かしさを感じて糸雨は思わず笑ってしまった。片羽をじたばたと動かし、小鳥の姿でピーピー喚いている様は態度に反して愛嬌がある。
続けて苦言を呈そうとした一色を糸雨は遮って、鳶に向けて頭を下げた。

「いえ、失礼しました若様。俺は糸雨と申します。とりあえず、これ食べますか?」

糸雨はリュックの中から金平糖の詰まった袋を取り出した。どの妖も概ねこれが好きなので、いつも持ち歩いているものだ。もちろん自分も食すが。
色とりどりのそれを目にした鳶は、ごくりと喉を鳴らした。

「う、うむ。苦しゅうない。その方、我に馳走せよ!」
「はいはい、どうぞ」

笑いを噛み殺しながら金平糖を掌に五個ほど乗せて鳶の目の前に近づけると、偉そうな小鳥は嘴でそれをつついた。
小さな嘴におさまるかと心配したが、鳶は器用に咥えて噛み砕くと嬉々として飲み込んだ。頭の毛がふわっと膨らみ、わずかながら毛に艶が出てくる。

「いっぱいあるので、もっと食べていいですよ」
「う、うむ。まあまあの品じゃ」

まあまあと言いつつ鳶は出された金平糖を全部平らげた。
驚いたことに、満腹になったらみすぼらしかった毛が艶を帯びてふわふわになった。
小鳥が膨れた腹を重そうにして目を細め、タオルの上で丸くなる。ついスマホのカメラを向けたくなる可愛さだ。

「ふう食った食った。初めて食した供物じゃが、なかなかであったぞ。そちは良い心がけの持ち主じゃ。よし、褒美を取らす!そちを我の家来にしてやろうぞ!」
「あ、それはお断りします」
「なぜじゃ!!」

まさか断られるとは思っていなかったのか、鳶が悲痛な叫びを上げる。それでも糸雨は苦笑まじりにきっぱりと重ねて断った。

「俺にはもう心に決めた方がいるので。申し訳ありませんが、若様にはお仕えできません」
「何じゃと……!」

全身の毛を逆立てて鳶がわななく。猛禽特有の目つきが鋭さを増すが、同時に潤んでいた。
その強い視線に何か想起させるものがあり、しばらくして糸雨は「あ」と声を上げた。

「もしかして……ここ半年ほど、外で俺のことを見ていたのはあなたですか?」

鳶の全身がぎくりと強張る。小鳥なのにやたらと表情豊かだ。返答はなくても丸わかりである。

「俺に何かご用でも?今はお一人みたいですが、若様のお供はどちらですか?もしかして、はぐれて――」
「……おらん」

首を腹の毛にうずめて俯いた鳶は、小さくつぶやいた。

「我に供は、おらん。……現し世で三十有余年、我一人じゃ」

寂しげな声音に、室内がしんと静まり返る。
一色はじめ事務所の面々もたいがい『訳あり』の生い立ち揃いなので、鳶に同情するような空気が流れる。
急に場が湿っぽくなってしまい、どうにも居心地悪くなった糸雨はタオルごと鳶を持ち上げた。

「師匠、とりあえずこの若様は俺の家に連れて帰ります」
「つってもお前、明日も試験あんだろうが。いいからそいつぁここに置いていきな。いつも言ってるが――」
「いえ、こいつを拾ったのは俺なので。俺が面倒見ますよ。これもたぶん、縁ですから」

縁と言われると一色も黙らざるを得ない。かわりに、飲み込んだ言葉を溜め息に変えた。後頭部をがりがりと掻きむしる。

「……わぁーった。だがな、もしなんか面倒事が起こったらすぐに俺んとこ連絡しろよ。お前の尻ぬぐいは、師匠である俺の役目だからな」
「分かってます。ありがとうございます」

糸雨が表情をパッと明るくすると、一色は「しょうがねえなぁ」とばかりにつられて笑った。


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