声が届かなくなった。
七海ー!という灰原さんの声が、騒々しい足音とともに寮の廊下に響き渡る。苛つきを隠そうともしない表情の七海さんが、自室の引き戸を開けた。
「うるさい。一体なんなんですか」
それでも律儀に応対する七海さんは、灰原さんとの関係性を考慮せずとも、丁寧な人だと思う。
対する灰原さんは彼の指摘などどこ吹く風で、扉の前で立ち止まっているというのに、依然としてやかましく足音を鳴らしている。
「大変だよ! おばけさんの声が聞こえないんだ」
七海さんは「は?」と一言発し、続けて「話を聞くから静かにしてくれ」と言いながら、灰原さんの額を上から押さえ付けた。灰原さんはようやく動きを止める。
「で、おばけさんはそこにいるんですか」
七海さんが問う。彼の目にはわたしの姿は見えないから、わたしが話題になる時、決まってそう確認をする。
ほとんどの場合、灰原さんの二、三歩後ろに付き従うわたしだが、この時ばかりは少々離れた場所に立っていた。
「あれっ!? おばけさんがいない」
廊下と階段が合流する、開けた空間。わたしはその場所からぶんぶんと大きく手を振った。
「あ、いた! どうしたの? 早くここにおいでよ」
「男子フロアに立ち入るのを遠慮しているんじゃないですか」
七海さんの言葉に、灰原さんはあ、そうかと合点がゆき頷く。
じゃあ僕らがそっちに行くねと応え近付いてくる彼に、七海さんは黙って着いてきた。
「おばけさんはここに立ってるよ。じゃあ、しゃべってみて」
三角形になるよう立ち位置を取り、灰原さんはわたしの顔を見て指示をする。はい。聞こえますか。無反応の二人に、聞こえていませんかと駄目押しの発声。漂い続ける静寂は、空気すら揺らさない。
「今しゃべってた?」
はいと言う代わりに、わたしは頷いて見せる。灰原さんは首を捻り、その様子を見て七海さんも首を僅かに傾けた。
わたしの声は、わたしの耳にきちんと届く。だが、いよいよ灰原さんの聴覚はわたしの声を聞き取れなくなった。前兆はない。何が何だかわからなかった。
「困ったね」
灰原さんが、気遣わしげにわたしに言う。
わたしはどう答えるべきか迷い、ゆるく表情を笑みの形に整えた。元々、姿が見える人がいるだけでも儲けもの。それが灰原さんのような優しい人であったという事実だけで、わたしは幸運だと思う。それを灰原さんに伝える術がないことを、今は悔しく感じる。
わたしの表情から何かを読み取ったのだろうか。灰原さんはわたしの顔をじっと見つめて、真剣な声音で言った。
「困るよ。だって、僕以外にきみの声を聞ける人がいないんだ。きみが困ってても気付いてあげられない、僕はきみのために何もできない。それは、僕も困る」
灰原さんのその言葉に、わたしは唖然とした。
それから彼は、立て続けにいくつかの質問をした。困っていることはないか。用意してほしいものはないか。わたしはその全てに、首を横に振って否定を示し、そして笑顔を向けた。ありがとうの形に口を動かした。
「今は、様子を見るしかないよね。おばけさんが話しかけてくれてもわからないのは不便だけど、僕がちゃんと見ていれば、なんとかなるよ!」
灰原さんは、わたしが笑顔でいることにいくらか安堵したようで、ぱっと場を明るくするようにそう言って、話を切り上げた。