彼が亡くなった日。

 灰原さんが亡くなった。
 予想通り……と表現するのは少し違う。わたしは「この任務で死んでしまうかもしれない」という、推測の域を出ない忠告をしただけだ。そうならなければ良いと、触れ合う感覚のない両手を握り合わせて、わたしは祈り続けた。
 だが、結果は最悪の形でこの場に横たわっている。
 高専医務室の寝台の上、冷たくなりはじめている上半身に、夏油さんが真っ白なシーツを被せた。
 わたしは、灰原さんの血と泥で汚れた顔をひと目見た後、壁を通り抜けて廊下に出た。
 寝台の横の丸椅子で、七海さんが奥歯を噛み締めているのも見た。視界を覆い隠す手拭いは、灰原さんの姿を見ることを拒んでいたのだろうか。

「……ふっ……う……っ」

 わたしは無心で暗い廊下を歩み進んだ。
 十歩程で足は止まり、とめどなく溢れた涙が頬を伝う。嗚咽が呼吸を乱し、涙と鼻水で溺れそうだ。
 脚の力が抜けて、べたりとその場に頽れる。全く収拾がつかない有様だ。

「…………」

 ギシ、と木の床が軋む音が耳に届き、わたしははっと息を呑んだ。同時に、背後で何者かが息を呑む気配がした。
 ……おかしい。わたしは幽霊で、涙は床を濡らすことはないし、身体も嗚咽も泣き声も透明なはずだ。
 生前、呪術師として戦闘能力の向上に努めていたわたしが、背後を取られて気付かないはずがない。だから直感した。今、わたしは確実に、背後にいる何者かに視認されている。

「……っ、……七海さん……」

 両膝を床につき、べしょべしょに濡れた情けない表情のまま、わたしは振り返った。
 そこに立っていたのは、武器の大鉈を右手に構えた七海さんだった。彼はまっすぐにわたしの両目を見下ろして、視線を外さない。どうやら本当に、わたしの姿も声も七海さんには認識できているらしく、彼は目をまるくしながら、ゆっくりと、鉈を持つ手を腰の位置まで下ろした。

「あなた……まさか、“おばけさん”ですか」

 七海さんの声が、僅かな動揺に震えていた。
 わたしはその場に立ち上がりながら、ふと気付く。制服が肌に掠れる感覚、古い木の床が足の下で軋む音、頬を伝い落ちる涙の温度。生前と同じように、外的な刺激を全身で感じる。おばけさん。灰原さんが名付けた呼び名。わたしは今、本当に幽霊なのだろうか。

「……はい……今はもう、七海さんにも見えているんですね」
「…………ええ」
「……こんな時にすみません。灰原さんにわたしの姿が見えていたのって……、亡くなる間際だったからだと思います」

 七海さんの応答を聞き、わたしは即座にそんなことを口走っていた。
 わたしの姿が見える人は死が近い。この予想は当たっていた。七海さんもそうなのだとしたら、伝えるべきだと思った。
 七海さんはわたしの考えを察したらしく、そうかもしれませんねと呟いた後、こう言った。

「あなたの姿は見えますが、私の死期が近いわけではないと思います。……あなたは今、幽霊じゃなく、気配が呪霊になっていますから」



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