「何かいい事でもあったんですか?」
伊地知さんは微笑みを崩さず、続けて質問をした。面倒な構ってちゃんだと思われただろうが、今朝はそれを凌いで嬉しいビッグニュースがあるのだ。わたしは手帳の間に大事に挟んでおいた切符サイズの紙切れを、効果音付きで伊地知さんの眼前に示した。
「あぁ、隣の駅前に開店したパン屋の。人気だそうですね」
「そうです、そうです!今朝やっと昼休みの整理券が取れたんです!」
苦節十日。毎日早めに家を出ては出勤前に立ち寄った。正午に入店する権利を獲得するために。よかったですねと笑顔を向ける伊地知さんにわたしは感謝を伝え、メモとペンを取り出す。
「伊地知さん、何かテイクアウトでご希望はありますか?人気なのはバタークロワッサンだそうです」
はしゃぐわたしを宥めるように、伊地知さんは「お気遣いありがとうございます」と答える。その顔を見てわたしは、さすがに仕事中にまずかったかと我に返った。伊地知さんはわたしの表情の僅かな変化に気付くと、じゃあそれを一つと答える。メモに書き留めるために視線を落とすわたしの後方に視線を向けたまま、伊地知さんは何かに気付いたように「あ、」と声を漏らした。
「七海さん。おはようございます」
七海さんが入室してきたようだ。わたしは素早く振り返ると、伊地知さんの声を追いかけるように朝の挨拶をした。にこにこと微笑むわたしに何らかの異変を感じたらしい七海さんは、朝の挨拶に加えて「何かあったんですか」と言葉を続けた。
「ええ。彼女が、隣駅のパン屋さんの整理券を取ったとかで」
手のひらを上に向けわたしを指し示しながら伊地知さんが説明してくれた。すると、七海さんの眉がピクリと動いた。なんだろうと目をまるくしていると、七海さんはそれはよかったですねと言いながら、僅かに顔を傾け右手で眼鏡の位置を直した。
「あぁ、七海さんパンがお好きですもんね」
「ええ……人気が落ち着いた頃に行きたいと思っていました」
伊地知さんと七海さんの間にほんわかした空気が流れる。七海さん、パンが好きなんだ。思わぬ情報の収穫にわたしは内心でガッツポーズをしながら、では喜んでおつかいを引き受けようとメモを持ち直す。口を開こうとした瞬間、七海さんがわたしの顔をじっと見た。
「あの、あなたが嫌でなければ、私も同伴することはできないでしょうか」
わたしは驚き「へっ!?」と反射的ないらえが飛び出した。わたしは落ち着かない動作で整理券を手に取り、裏面までしっかりと目を通す。そこにしっかりと記載された『一枚につき二名まで入店可』の文字を読み上げると、七海さんは期待を込めた目でわたしを見つめた。何その顔ずるい。