Sun shower | 04


――さすがに少し、調子に乗ったか。
脳内に浮かんだのはそんな小さな後悔の言葉。
七海が眉間を押さえるのを見て、正面に座す猪野がすかさず口を開いた。

「七海サン、大丈夫すか?酔いました?」
「いえ、なんでもありません。酔っていません」
「それならいいですけど」

現場での任務後、そのまま東京の街中で退勤した七海と猪野は、揃って居酒屋の暖簾をくぐった。
焼き鳥の串を手に安堵の笑みを浮かべる猪野。七海はありがとうございますと小さく呟き、同じく串を摘まみ上げた。

「少し考え事をしていただけです」
「悩み事っすか?俺で良ければ聞きますよ!」

常日頃から七海を慕い、頼りにしている猪野だ。力になりたいと、その声はどこか弾んだ調子で響いた。
七海はその表情に視線を留める。砂肝をもぐもぐと咀嚼する顔は頼もしいとは言い難い。
それでも、猪野にこの手の話題を相談することは有益だと、七海は結論付けた。
七海に対し、普段は犬のようにまっすぐに敬意を向けるが、その実、猪野には理知的な一面もある。七海はそれをよく知っていた。


* * *


「あなたのことをもっと知る努力をします」

一月、七海がこよみに対して宣言した言葉が、七海の脳内に不意に蘇る。
京都出張の後、今に至るまで、同僚として共に時間を過ごした。
バレンタインデーにはプレゼントを受け取り、ホワイトデーには返礼として贈り物をした。
七海はこれら一連の出来事を些事とは言わないが、大はしゃぎするほど子どもではなかった。
こよみのほうがどう考えているかは、推察しかできないが。

彼女の気持ちを“決めつける”ことは、もうしない。痛い目を見るから。

だからこそ、前進のためには知ることが必要だ。
知るというのは、知識を増やすことかもしれない。だが、それだけではないだろうと七海は考えている。
しかし、まだ明確な答えを出すには至らない。そもそも、この問いに答えなどあるのか。

例えば、こよみの誕生日、血液型、趣味。好きな食べ物。休日の過ごし方……
七海は一つも知らない。そして、知ることで何が得られるのかも見当がつかない。
共通の話題か。一緒に過ごす時間か。
これまで、それがなかったとは思わない。
だが、と思う。
職場以外の場所でのこよみの姿を、七海はほとんど知らない。
では、果たして自分はそれが知りたいのか。
七海は、まだはっきりとした答えが出せないでいる。


* * *


猪野が目を輝かせながら、七海が話し出すのを待っている。
七海ははあと一つ息を吐き、明朗な声音で口火を切った。

「猪野くんは、仲良くしたい相手のことを知るということは、意味のあることだと思いますか」

猪野が焼き鳥の竹串に伸ばしかけた手がぴたりと止まる。同時に顔を上げた。

「え?……恋バナっすか?」
「……違いますが……まぁ、そう捉えていただいても結構です」
「えっ!?なにそれ!?どういう意味ですか!?」

猪野が身を乗り出しかける。
七海は平静な表情を崩さず、大声を出した猪野を制することもしなかった。居酒屋の喧騒の中では些事だと判断したからだ。
さてここからどうしたものかと、七海は瞬時に考えを巡らせる。やがて、観念したように再度口を開いた。

「何もこれは、恋愛だけの話ではないという意味です。……ですが、私はその方面の話を聞く方が、おそらく有益なのだろうと……」
「えーっと……つまり?七海サンは、仲良くなりたい人がいるってこと……っすよね?」
「……まぁ」

猪野は難解そうに首を捻りながらも、表情から好奇の色が消え、慎重に言葉を吟味し始める。

「…………んーと、すみません、憶測で失礼なこと言いたくないんで、ちょっとだけ絞らせてほしいんですけど」
「……はい、どうぞ」
「高専に出入りしてる、『窓』の女性のことだったり……」
「それは違います」

七海の間を置かない否定に「じゃあ大丈夫っす」と、猪野は相好を崩す。

「つーか、俺にそういう話してくれるなんて、もしかしなくても、俺が先生のこと好きなの知ってますよね?」

猪野の言うところの“『窓』の女性”は、直後に“先生”と呼称した人物と同一である。
話題の中の彼女は、高専で英語の授業を担当する非常勤教師を差す。
いつから高専にやって来たのか七海は把握していないが、高専内で見かけるようになったのはここ数か月以内のことだ。
その短期間で、猪野が校内で彼女と親しげに話しているのを何度か目撃していた。
たったそれだけのことで、猪野が彼女に向ける感情の正体を、七海は知るはずもない。だが、猪野があっけらかんと口にしたことに、七海は内心で驚いていた。

「ええ。……この話が不愉快でしたら、話題を変えましょう」
「えっ、いや全然。わー、七海サンと恋バナする日がくるなんて信じらんないっす」
「…………」
「あ、すみません。俺誰にも言わねーし、そもそも恋バナしてるのは俺だけでしょ、わかってますよ」
「……恩に着ます。ですがフェアじゃありませんね」
「あ、七海サンがどんな人か、俺が一番知っていたいんで、お安い御用っていうか……」

猪野が人を惹きつけるとしたら、このまっすぐさと飾らなさだろうと、七海は考え至る。
言葉を発した先には応対する相手の感情がある。猪野はおそらく、なんとなくそれも想像しながら話を進めることができるのだろう。
猪野の性質を感じ取りながら、自らはどうだろうかとふと考えてみる。
こよみの言葉を引き出そうとして、何故こんなにも難解なのかと頭を抱えた経験を思い出す。

「七海サンが知りたいことを俺に聞いて、俺が答えるだけでしょ?」
「まぁ、そうですね」
「七海サン、詮索されるの嫌いだろーし、俺は七海サンに嫌われたくないから聞かねーし。なんも問題ないじゃないすか」

猪野がにっかりと歯を見せて笑う。楽しそうですらある。
七海はその目をじっと見つめ返した。
猪野のキャラクターは知っているつもりだが、その心は掴めなかった。否、理解していても、自分には到底できないことだと感じた。
いくら信頼していても、自分の心を土足で侵されるのは、それを許すのは、七海には信じ難い所業だ。
それでも、若い自分にならできたかもしれないが。
唯一無二の親友の笑顔を頭に思い浮かべながら、七海はそんなことを思う。

「つーか俺、そんなにわかりやすいっすか?先生のこと好きって」

猪野が止まっていた手を再び動かし始めた。テーブルの端に用意された竹筒に、焼き鳥の串が放り込まれる。

「いえ、それほどでも。ただ、彼女が高専に来る日はきみも嬉しそうだなと、そう思っただけで」
「へへ、そうかもしれません。挨拶するだけでやる気出てくるんすよね」
「…………」

――その気持ちだけは、理解できる。
猪野のふにゃりとした笑顔を見ながら、七海は心にこよみの呑気な笑顔を思い浮かべた。

理解している側の自分がこんな表情だったら非常に困るな、と心の中で呟いて、七海はコースターに置かれたビールジョッキを手に取った。
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