幻のドラゴン | 24


バス停に着く十分前のこと。
荷物を手に応接室を出た七海と吉田は、数メートル先の廊下から聞こえてきたその声に足を止めた。

「稲村さん。わたしが補助監督になった理由を聞いてもらえる?……」

(……鬼怒川さんか)

目の前の七海が、歩を進めるのを躊躇した様子を察した吉田は、小声で言った。

「取り込み中みたいですね、少し待ちましょうか」
「……すみません」
「いいえ」

七海が廊下の曲がり角に身体を潜め、壁に背を預け小さく息を吐く表情を、吉田はちらりと窺い見た。
いつ終わるとも知れぬ会話のために応接室に戻るまでもない、が、ここでは二人の会話の内容が聞こえてしまう。
だが、その七海の表情から、この後続くこよみの言葉が気になるのではないかと、吉田は感じ取った。
聞き耳を立てる行為は感心しないものの、七海の良い意味での“普通の人間味のある姿”に好奇心をくすぐられた吉田は、気付かないふりをしてその場に立っていた。

――呪術師の心を少しでも楽にする人になりたい。

「…………」

七海は何も言わずに、視線を下に向けていた。
当然、何を考えているかは吉田にはわからない。



* * *


七海には一つ、心に引っ掛かって忘れられない出来事があった。
こよみに対する唯一の違和感と言い換えても良い。

半年前の食事の日の別れ際に、駅の改札でこよみを見送った時。
ホームへ向かうこよみが、一度も振り返らずに去っていったことだ。

忙しく過ごす日々の中で、その面影は徐々に七海の中で存在感をなくし、薄れていった。
こよみのことを思い出すこともなくなった。
あの日、自分はこよみに対して、はっきりと自分――呪術界――と距離を置くように仕向けるつもりだった。
呪詛師から窮地を救ったことは後悔していない。非術師を救うのが七海の仕事だからだ。
それがこよみであったことを特段良かったとは思わないし、居合わせたのが自分であったこともまた、ただの偶然と考えている。
だが、こよみがそれを特別視しているのであれば。
特別視しているのが、“助けたのが七海であった”ことなのであれば、突き放すのもまた自分の役割であると、七海は考えた。
だが、それは私情だ。相手がこよみであるからこそ、七海がそうしなければならないと考え至った時点で。
それは、七海がこよみに対して“呪術界に戻らないでほしい”という思いがあるからに他ならない。

呪詛師騒動の夜、こよみが七海に「また会ってほしい」という願いを口にした瞬間、七海は数多くの選択肢から、返事をしなければならなかった。
非情になり切れなかったことを、頭の片隅で後悔した。
答えを先送りにしたのは、迷いがあったからだ。
こよみと再会したことを、ただの不幸とは捉えられなかったからだ。

あの夜七海は、こよみと再会した偶然を、心のどこかで確かに“嬉しい”と感じたのだ。

だから、次々とぼろを出した。無意識に。
こよみの願いに応えたい。こよみの意に沿いたい。そんな本心が、こよみのしょげる表情を慰めるようなタイミングで顔を出す。
その直後、それら全てを失態だと感じた。回りまわって、必ずこよみを不幸にする。七海は冷静にそう考えてもいた。

再会したその日、こよみを自宅まで送り届けた車内で、こよみは「もっと強ければよかった」と言った。
七海が「仮にそうであれば、私が呪術の指南をすることもなかった」と返すと、こよみは泣いた。
高専時代に最愛の親友を失くしたことを思い起こさせたのではと七海が案じると、こよみはそうではないと首を横に振った。
言葉通り、七海に指南を受けたことを指すのだとしたら――七海は、やはりそれに対して、悪くはないと考えてしまうのだ。

その後の食事の席でこよみが嬉しそうに笑っていたことを思い出す度に、七海の心がじんわりとあたたかく満たされる感覚があった。

それら全てが、理性的な七海にとっては“ぼろが出た”出来事である。

だから、失敗を取り返すように、取り繕うように。
「結婚を考えてはいないのか」――などと、心にもない言葉を掛けた。
その思いの全てが嘘ではない。
非術師の世界で生きていくこよみの背を押したい。それもまた、七海の本音だった。

だが、その半年後。
二〇一七年の十一月に、こよみは呪術高専に戻ってきた。
その行動のはじめの一歩を踏み出すために、こよみは五条に連絡をした。
伊地知の進路である補助監督という職種に深く影響を受け、こよみはその進路を選んだ。

こよみが間近にいる日々をどうにかやり過ごすうちに、七海は気付いた。

――ああ、成程。
彼女は、私を避けたのだ。
私をどうやって避けて呪術界に戻るかに、この半年間、心を砕いていたのだ。


そんなことは、戻ってきて数日間の態度で、七海は容易く察することはできた。
だが、決定打に気付くことはできなかった。
原因を作ったのが半年前の七海自身だとして、何かすれ違いがあったとして、もしあの『結婚発言』だったとしても。
七海は、こよみが傷ついた本当の理由にまでは、思い当たらなかった。
“誤解があった”という事実だけにしか、七海は気付くことができないでいた。

もちろん、七海が意図した言葉だ。こよみにそのまま呪術界に背を向けさせるための発言。
だがこよみは、七海の思い通りにはならなかった。
それどころか、こよみが呪術界に戻るためには、七海をかわす必要性すら生まれた。
だから、五条や伊地知に頼ったのだ。

七海が残したのは、こよみとの間の気まずさと心の傷一つ。

今――京都校出張の機会――にして思えば、衝突は当然のことだ。
半年前から、否、それ以前から、七海は一つも変わってはいないのだから。
そして、変わっていないことに気付いていなかったのだから。



* * *



(つまり、私は何度も何度も…彼女に失言をぶつけたにすぎなかったのか。半年前も、昨日も)

京都校の廊下の片隅で、こよみと稲村の会話を聞きながら、七海はようやく気付いた。

こよみが呪術界に戻るきっかけは、やはり半年前の呪詛師騒動。
七海であったかどうかは断言できないものの、こよみの言う“呪術師”には七海も含まれる。もっとも、七海だけではない。
七海にとっては、その事実はもはやどちらでもよかった。
大事なのは、こよみが七海の言動で傷ついたことが明確になったこと。七海自身が、それに気付けたことだ。
全ては、七海がこよみのことをわかったつもりでいたことと、思い通りになるという思い上りに端を発している。

結婚したらどうか。
夫婦と勘違いされてそんなに困るのか。
同じ人間の口から、よくもまぁそんな言葉が飛び出すものだと呆れる。七海は頭を抱える心地だった。
こよみはさぞ混乱したことだろう。だがこよみはあくまでも、七海を困らせたくない、困らせることが嫌なんだと言って譲らない。

(本当に、万に一つも、あなたは悪くないじゃないか。私が。私がぶれているだけで)

七海が伝えられない本音を伝えるのを避けたせいで、こよみは傷つき、混乱した。
だが、正直に言える言葉が何か一つでもあるだろうかと、七海は考える。

七海自身の本音。
――私は、あなたを傷つけたくない。

(……彼女が私に告げた言葉と、同じことだ)

七海は静かにため息を吐いた。
その隣で、吉田は七海の顔を見上げた。なんとなく、先刻よりすっきりとした表情に見えた。
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