幻のドラゴン | 05


「私は“困るんですか”と訊いたのに、あなたはあなた自身のことでなく、私に配慮しようとしてばかりだ」

七海のその言葉は、こよみにとっては質問なのか独り言なのか、それすらも判断できなかった。
ただ、彼が憤りを感じていることは理解できた。
間違いなく七海が、どうにもできずにいて、どうにかしたいと考えていることの一つ。それが、こよみのことだったのだ。

こよみは数回瞬きを繰り返し、そして震える声で言う。「……いけませんか?」

「時と場合によります」
「……だったら、わたしが時と場合を選び間違えただけじゃないんですか?それがいけないんですか?」

“答えになっていない”。
もし七海が、こよみと会話をするときに常にそう感じていたのならば、こよみには耐え難い事実だった。
それでも、こよみにはこよみなりの、そうしてきた言い分と理由がある。
七海がこよみを理解できないと言うのならば、こよみだって今しがたの会話の内容だけ取り上げても、七海の言葉は不可解の連続だった。

「間違えたら教えてくださってもいいじゃないですか。そんなにいつも、わたし、間違えてばかりでしたか?呆れるくらい?」
「そうは言っていません」
「七海さんはこう思ってるだろうなって、返ってくる言葉を予想して予防線を張って、……確かに、わたしはそういう癖があるんだと思います」
「……ですから、私はそうは」
「でもそれって、傷つきたくないからで……それを否定されてしまったら、わたし、もう怖くて、七海さんとお話することも、できなくなってしまう」

――ああこれ以上は絶対にダメだ。
そう頭では警告しているのに、こよみの言葉は止まらなかった。
七海は何度も、こよみの言葉を止めようとしている。こよみは自らの言い分を言いたいだけ言っている。七海の言い分も聞かなくては、フェアではない。

こよみが肩で呼吸をしながら言葉を止めると、七海はため息を吐いた。

「……一つひとつ、誤解なく噛み砕いて話し合う時間が、いつもあるとは限らないでしょう」
「……その通りですね。だから……悪いのはいつも、飲み込みが悪くて、決めつけてかかるわたしで……」
「私はそうは言っていません。どうして今日はそんなに投げやりなんですか。私の質問の答えもまだですよ」
「投げやり……?」

尋ね返した声が震えた。
質問とは、「勘違いされてそんなに困るんですか」のことだろうか。
答えは「困る」「困らない」の二択以外は許されないのだろうか。
困るも困らないも、「なぜなら……」と理由が続くものではないのだろうか。

こよみが七海に抱く感情は常に複雑だ。きっと七海が考えているよりもずっと深く、幅がある。
咄嗟に、七海が納得できる答えを用意できるほどこよみは器用ではないし、言葉にするのだって難しい。
それをあまつさえ“時間があるとは限らない”などと。

――わかってる。七海さんは間違っていない。
じゃあ、わたしは?わたしが間違っているの?

「質問には答えたつもりです。答えとして受け取ってくれないのは七海さんのほうです」

七海が目をまるくした。「は……?」

「わたしは、七海さんが不快に感じたり、困ってしまうのが嫌なんです。それが答えです」
「……私は、あなた自身の本音を」
「本音です!……七海さん、わたしのこといつまで十六歳のままだと思ってるんですか?いつまで決めつけてかかるんですか?」

こよみの手が震え、怖気づいて言葉が掠れた。

「七海さんの考えていることがわからない時、わたしもきっと決めつけています。だからこそ、ちゃんと話したいのに、時間がないなんてあんまりです」


「あ、あの……失礼いたします」

緊迫した言い合いに割って入ったのは、先刻フロントの奥に立っていた女性スタッフだった。

「あっ……はい!」
「お取込み中、申し訳ありません。七海様、鬼怒川様。先程のトラブルは我々のミスで……」
「あ……そうですか、ええと、……今行きます」

こよみは自身の脇に置いたトランクを引っ掴み、女性の後に続いてフロントデスクに向かった。
どうやらこよみではなく、ホテル側の勘違いによるミスであったらしい。
『七海』という同姓の夫婦が、同日にツインルームで予約を入れており、そちらの予約状況をこよみに伝えてしまったとのことだった。
幸いなことに、シングルルーム二部屋の予約は残っており、そのまま宿泊が可能とのことだった。

「そうですか……、よかったです」
「この度は大変申し訳ございませんでした」
「いいえ、とんでもないです。じゃあ、手続きを再開していただければ……」

つまるところ、事態は振り出しに戻っただけだった。
この勘違いさえなければ、七海との言い争いのきっかけも生まれることはなかっただろう。
その後、宿泊の手続きは難なく終了し、荷物を預ける手配も済ませた。
あとは、呪具と出勤用鞄を持った男女二人がそこに残るのみ。

(……ひどいことを言った。言いまくった。もうこんなの、後退どころじゃない……)

七海はどう思っているか、こよみは知る由もない。
だが、こよみ自身は後悔の念しかなかった。
七海にだけは伝えまいと思っていた本音の、その一部分。
些細なきっかけで、滝のように一方的に、ひたすらにぶつけた。
七海に何を言われたか、こよみはもはやほとんど覚えていない。
醜態を晒した。七海を傷つけた。後味はただただ最悪でしかなかった。

とぼとぼと、重い足取りで七海のいるソファに戻る数十歩の間に、こよみの仕事用のスマートフォンに着信があった。
こよみは気取られ、慌てて画面を見つめる。発信元の表示は『京都校職員室』だ。

「は、はい。鬼怒川です」
『ああ鬼怒川さん?庵です。今どこかしら、迎えをやったほうがいい?』

電話の相手は、庵歌姫だった。
こよみは慌てて腕時計に視線を落とす。時刻はもうすぐ十一時だ。京都校到着は正午の予定だと伝えてある。
京都駅からは在来線とバスを乗り継いで一時間程度。東京校同様、決して利便性の良い土地ではない。
歌姫は、土地勘のない人間ならばと心配し、早めに電話をしてくれたのだろう。

「いえ、大丈夫です。先月も伺っていますし……」
『そうだっけ?ごめんねー色々わかってなくて。いつも田辺くんが担当だものね。じゃあ気を付けて来てね』
「…………」

言いたいだけ言って電話が切れた。こよみは呆然と、通話終了の文字を見下ろす。

こよみは、歌姫のことはあまりよく知らない。京都校所属の教師であり、準一級呪術師。
五条の世代の三期上であることは、家入から聞いた。
“これ、センパイにお土産よろしく”と一方的に持たされたのは、昨年東京に日本一号店がオープンした、韓国コスメショップの化粧水だった。
家入と仲が良いというだけで、こよみは興味が湧いたし、きっと良い人なのだろうと根拠のない思いを抱いてもいた。

「鬼怒川さん」

ふと、七海が呼びかけた。呪具を片手で立て抱えながら、こよみから三歩離れた正面に立っている。

「ひっ、はい!」

大変に不躾ないらえが飛び出した。
こよみの怯えたような表情にも、七海は特に顔色を変えない。
とはいえ、こよみは“しまった”と失礼の上塗りのように顔色を青くするし、七海の次の言葉に続く不自然な間も、何も動じていないわけではないことは明白だった。

「……、……京都校まで、別々で向かうのはどうでしょうか」
「……あ、あの……賛成、です」
「…………」

「今、口を開いたら、ますます自分が嫌いになりそうです」

それも、こよみの本音だった。
七海への気遣いも、こよみ自身への自己嫌悪の気持ちも、全てがこよみの本音である。
もしかしたら、七海はいつも訝しげだったのかもしれない。今日の言い合いでそれが明らかになったのは、こよみは到底、前向きには捉えられそうもなかったが。

「では、京都校で」
「はい。……お気をつけて」
「ええ。鬼怒川さんも」

七海は淡々と言葉を並べた後、さっさと自動ドアを通り抜け、外に出て行った。
こよみはその背中を見つめながら、これまで七海はこよみの歩幅に合わせて、ゆっくりと歩いてくれていたのかもしれないと、ふと気付いた。

(……どうしよう…………)

謝りたい。だが、話を聞いてもらえるだろうか。
謝るのであれば、どうやって謝ったら良い?七海を不快にさせず、時間をかけず、誤解なく伝えるにはどうしたら良い?
否、もし七海が言う通りなのであれば、自分の言葉は本日の午後、京都校の教師や職員たちに、果たして上手く通じる言葉なのだろうか。

急速に底の見えない暗闇に落ちていく、元々少ない自信や、経験値や、それに似た何か。
こよみは大きなため息をついた。
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