幻のドラゴン | 04


ホテルのロビーは広く、開放感のあるつくりだった。
コンビニが併設されており、その横には上層階へと向かうエレベーター。
朝食ビュッフェで利用するレストランは、おそらく奥に向かう廊下の先だろうと、七海は見当をつけた。

呪具を持ったままではスタッフに怪しまれる、もとい「こちらもお預かりでしょうか?」と気遣いを向けられ、居心地が悪いだろう。
フロントでの手続きはこよみに任せ、七海は近くのソファで待つことにした。

「予約票はお持ちですか?またはメール画面をご提示ください」
「はい、お願いします」

若い女性のフロントスタッフが、こよみと向き合い笑顔を浮かべている。
「ええと……」とたどたどしい口調、奥に控えている先輩スタッフと思しき背の高い女性。
纏う雰囲気は新入社員といった感じだ。フレッシュなのはホテルの顔として悪いことではない。
こよみは、ゆっくりとした対応にも特に口を挟むことなく、にこにこと穏やかな表情で待つ姿勢を崩さなかった。
こよみの差し出した予約票を手に、フロント内側を向いたモニターとしばし視線を往復させ、スタッフは口を開いた。

「ツインルームをご予約の七海様、ご同伴は奥様でよろしかったでしょうか」

花の咲くような笑顔で、とんでもないことを言い放った。
こよみはピシッと石のように固まり、七海は約十メートル後方で、眉間にしわを寄せた。

「えーと……違いますね……」

こよみの台詞と引きつり気味の表情に何かトラブルを察したのか、フロント奥で静観していた先輩スタッフが素早くモニター前に近寄ってきた。
「えっ!」と驚きをそのまま声にする、おそらく新人のスタッフ。こよみは「あなたを責めているわけではないですよ」という表情と態度を意識しつつ、努めて冷静に言葉を続けた。

「予約内容は、シングルルームを二部屋で、宿泊者は七海建人、鬼怒川こよみ。別室です」
「あ、は、はい、」
「あとその、夫婦ではないです」

これは余計かとも思ったが、ひょっとしたら確認に必要な情報の可能性もあると考え、一応付け加える。
慌てふためく新人スタッフの声を遮るように、先輩スタッフが割って入った。

「失礼いたしました、確認してまいりますので、少々お掛けになってお待ちいただけますか」

新人へのフォローと、こよみへの気遣いの両方の意味のある行動だったのだろう。
こよみはお願いしますと落ち着いた声音で告げ、トランクを引っ張り七海のいるソファまで歩み進んだ。
七海と視線がかち合い、こよみは眉を八の字に下げた。

「困りましたね、何か行き違いがあったんでしょうか」
「…………」

こよみがトランクの持ち手部分に置いた手が、落ち着きなく同じ場所を撫で往復する。
七海は特に何も言わず、その手元を見ていた。
こよみは七海の視線の先に気付き、手を止めてぱっと放す。なんとなくそのまま身体の後ろで握り合わせた。

「わっ……わたしはその、最悪そのへんのビジネスホテルでもなんでも」
「そんなに困りますか。勘違いされて。こんな一度きりの同伴出張で」

七海の、妙に冷めたその声に、こよみは笑みを消した。
そして急速に、思考をフル回転させる。何かが、七海の気に障ったのだろうか。いったい何が?

「……え?だ、だってツインって一部屋ですよ。困るでしょう、七海さん」
「……まぁ。手配した者のミスだとしたら、それは当然困りますが」
「わ、わたしです、予約を入れたの。わたしが仕出かしたことだとしたら、あの、宿をすぐに取り直して」

自分が何か失敗をしたことで、七海が特大の迷惑を被ろうとしている。
それは、いくら冷静な七海だとしても、怒っても仕方がないことなのかもしれない。
こよみはひやりと頭の天辺が冷えるような心地だった。

「……ホテル側のミスの可能性も含めて言っているので、とにかく今は待ちましょう」

声のないため息を漏らしながら、七海は自身の革靴の爪先あたりに視線を落とした。
こよみは、自身の両手を再度身体の前に移動し握り合わせた。
冷え性のせいで常に冷たい指先が、一際温度をなくしていた。

(七海さん、怒ってる?なんで?)

心臓が高鳴るのに、身体は氷のように冷えていく。
普段とは違う無色透明な眼鏡のレンズが、七海の冷徹な目元をはっきりとこよみの目に映し出す。
その表情は良いも悪いもなく“無”でしかないが、こよみの中の焦燥感が、余計に不安を煽る。

――そんなに困りますか。勘違いされて。

先刻、七海はそう言った。返事がないことと同等に恐ろしく、だが、その意味の全てを掴むことができなかった言葉。

「言いたいことがありそうな顔ですね」

七海が、不意にそう言った。
こよみは顔を上げた。思考が中断する。しかし、考えても自分の中に答えがないのは明白だった。

「……勘違いされてそんなに困るのかって、さっき……あれはどういう意味なのかと、考えていて」
「……夫婦で予約。そう確認されたでしょう」

こよみは、条件反射のように顔が熱くなるのを感じた。
七海の不快の原因は、こよみやホテル側のミスや、予定通りに事が進まないことへの苛立ちだと考えていた。
そうではなく、まさか、そっち?
仮にそうだとしても、不快に結びつく意味が、こよみにはまるで理解できなかった。
あんなのは、些細な勘違いではないか。自分たちの関係性など露ほども知らない他人の。

「な……っ、七海さんが不快に感じては嫌だと思って、咄嗟に、配慮のない言葉になってしまったかも……」
「…………」
「わざわざ確認されたのは、きっと夫婦に見えないからですよね。わたしたちどう考えてもっ……」

こよみはとめどなく上がる体温をどうにかしたかったが、どうにもならなかった。
いつの間にか指先までしっかりと血が巡り、流れる汗は冷や汗なのかそうではないのか、判断がつかない。
頭のどこか冷静なスペースで、こんなことを話し合っていても不毛だと気付いているのに、こよみは言葉が止められなかった。
空気が重くなりすぎないようにとこよみがフォローを重ねても、七海は無言のままだった。

こよみは徐々に、自らの内側で、心の一部分が冷たくなるのを感じていた。

「……何か言ってほしいです、七海さん……」

なんだかひどく、虚しい。
一人で慌てて、何をやっているんだろう。七海はずっと、何も言ってはくれないのに。

「あなたはいつも、答えになっていないんですよ」

いつの間にか顔を上げた七海が、突っ立ったままのこよみの両目を見つめていた。

「……え?」
「私は“困るんですか”と訊いたのに、あなたはあなた自身のことでなく、私に配慮しようとしてばかりだ」

七海の視線が再び床に落ちる。
怒っているのか、悲しいのか、悔しいのか。それとも、優しさのかたちなのか。
七海の心情はいつだって、こよみには難解だった。
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