カトレア | 17


「身体は回復したようですね」
「はい。七海さんと家入さんのおかげです」
「いいえ、私は何も」

七海のその反応に、こよみは表情を緩めて微笑む。
言葉を返す時以外、七海の視線は常にテーブルの上の食事に向いていた。
顔を下に傾ける度に、まつ毛が長いことに数年ぶりに気付く。
七海の美しい所作と共に、懐かしい姿と纏う空気をじっくりと噛み締めながら、こよみも向かい合って食事を進めた。

「地元のお祖母様やご家族はお元気ですか」
「はい。年末に帰ったきりですが……」
「それは何よりです」

短い会話がすらすらと滞りなく続く。そして、唐突に終わる。
確執も、甘やかな感情も、そこには存在しなかった。
七海はこまめに質問を飛ばした。こよみを気遣い、こよみの家族を気遣う質問。
当たり障りがない。それでいて、どこまでも紳士的な人だと、こよみは一人、心で再確認していた。

(おばあちゃんのこと、……七海さん、覚えててくれてるんだ……)

自らの目の前の取り皿の上に取り分けた鴨のローストに視線を落とし、こよみは細い息と共にそんなことを思う。
七海の中には特別な感情などありはしないのだろう。
ただ、共通の思い出をなぞり、こよみの緊張を溶かす寄る辺を探し、口にしただけ。
こよみの祖母は、七海の記憶の中と全く同じ状態ではない。それを言葉にするか、こよみは迷った。

(……要らない報告だ)

そう結論付けたこよみは、小さな鴨肉のカットを更に半分に切り分けた。
上にかかっているソースは深い赤色をしている。それを口に入れてから、顔を上げた。

「……このソース、甘いですね」

こよみのその声を聞いた七海は、付け合わせのペコロスに伸ばしかけたフォークを止め、鴨肉をフォークの上に載せた。
それほど大きく口を開けなくても、こよみの一口の倍のサイズの鴨肉が七海の口にすんなり吸い込まれる。
こよみは内心でどきどきとしながら、七海の反応を待った。

「本当ですね」
「美味しいですね」
「ええ」

七海は明確に、きちんと返事を示す。
美味しいものは素晴らしい。どんなに複雑に絡まる糸も、時間をかけて解いてくれる、そんな感覚がある。
七海が穏やかな表情をしているのは、別にこよみの前だからではない。
二人の間には何もない。何かがあってもなくても、七海は変わらない。それでも、こよみには十分だった。
変わらない七海と同じ時間を過ごしている。それだけで、こよみの心は満たされていた。
それでもこの空間を、美味しい食事が取り持ってくれていることだけは、こよみは決して忘れぬようにと気を張り続けた。
この瞬間も、少しでも雑念が脳内に侵入したらと思うと、恐ろしくてたまらなかった。
七海の機嫌を損ねないように。みっともない言動を見せないように。
自分自身が、何かを期待することがないように。

「玉ねぎのペーストと、バルサミコ酢かな……。このとろみはなんでしょうね」
「甘いので、ハチミツではないでしょうか。この赤さは、ベリー系の果物では」
「あ、そうかもしれない」
「気になるなら、聞いてみますか」
「いえ、大丈夫です。とっても美味しいけど、自分で再現は難しそう」

奥深い味は、おそらくひとつやふたつの材料からできているわけではなさそうだ。
この鴨のローストは、この店一番の人気メニューだという。口コミサイトではそういうことになっていた。

「わたしが作れちゃったら商売あがったりです」
「そうでしょうか。確かに店は設備が整っているので色々作れますが、自宅で試すのも新しい発見があるでしょう」
「わかります。だけど、自分で作ると想像した通りの味になりませんか」
「そうですね。マンネリを避けるなら、色々な調味料を試すのが良いと思いますよ。たまには手のかかるものを作るとか、珍しい食材に挑戦するとか」

七海の声が少々楽しげに弾み始める。
こよみは驚きに目をまるくし、「七海さん、自炊されるんですか?」と尋ねた。

「はい。少しは」
「すごいです」
「すごくはないと思います。あなたもするでしょう」
「しますけど……必要だからしてるだけで」
「私もそうです」
「お料理が好きな人じゃないと、色々試すことはないと思います」

こよみの自炊は、質より量を地で行くような内容だ。
美味しいものは、美味しいものを作れる人に作ってもらうほうが効率が良い。だから時折外食をする。
かといって、食事に対してそれほど大きな冒険心を持ち合わせてはいない。
お腹が空くから食べる。飽きるから違うメニューを作る。その繰り返しである。

「私はお酒も食事も好きですから。そうでない人であれば、何もおかしなことではありません」

七海のその言葉は、おそらくこよみの『必要だから自炊をする』という発言へのフォローなのだろう。
こよみは目を細め、テーブルの中央に視線を落とす。心地の良い低い声音に載せられる抑揚のない言葉。
高専で共に学んでいた時から変わらない。七海が意図しているかはこよみは知らないが、その声も内容も、いつも平等に他人を気遣うものだった。
七海は一見すると冷静で、どこもかしこも低温な人だ。全く関わりのない人間にまで愛想を振りまくこともない。
それでも、ひとたび言葉を交わし、その人柄に触れる機会に恵まれれば、その愛情深さの一端を見つけることは容易い。

――七海さんは、ずっと優しい。そして器用だ。どんな人にだって、きちんと正しく思いを表現できる。

こよみはそう信じて疑わなかった。
七海の正しさが、誠実さが、平等に注がれる優しさが、ずっと憧れだった。



* * *



「以前お勤めされていた会社では、どんなお仕事を?」

訊いてみたかった質問が、やっと声になった。
と同時に、お見合いの席のような堅苦しい文章だなぁと、こよみは自らにツッコミを入れた。心の中で。

「証券会社に勤めていました。顧客の顔かモニターを見ているか、どちらかの時間しかないですね」
「わ……大変そう……」

七海の返事に、こよみは素直にそう感想を漏らし、眉尻を下げた。

「そうですね、勉強は常に続けないといけませんね」
「だけど、七海さんは人当たりがいいから、信用されそうです」
「看破してほしいと思うこともありますよ。信用していただけるのも考えものです」

どういうことだろうと思い、こよみは次の言葉を止める。

「善良な人ほど信頼関係を築けず、二度と会いたくないような顧客や上司ほど私を買ってくれたり。後輩は、誠実で真面目な人間から見切りをつけていきますし」

七海が続けて口を開いた。
あまり良い思い出がないのだろうか。物言いは丁寧だが、辟易するような感情が滲み出ている。
こよみは「……なんとなく、そういう、人との関係の話はわかる気がします」と、小さな声で言った。
その仕事が嫌だったから、高専へ戻ったのだろうか。
そう尋ねたくて、こよみは質問することができなかった。なんとなく、そうではない気がした。

「鬼怒川さんは、卒業後は今の会社に?」
「……あ、はい。そうです」

七海の質問返しに、こよみははっとして顔を上げた。水の入ったグラスを置き、七海が言葉を続けた。

「食品商社ですよね。事務職ですか?」
「商社というか、問屋ですかね……。わたしは営業事務で入って、今は総務です」
「会社全体のことを担当しているんですね」
「そう言うとかっこいいですね。でも実態は何でも屋さんです」

備品や文書管理、来客対応、人事に勤怠、お茶汲み。
営業事務出身だから、ヘルプに入ることもある。とりあえず、どんなことでも取次ぎ、一旦預かる。会社の顔だから。
やりがいは大きいが、責任は重い。かつての七海と違って顧客の命運を握っているわけではないが、その前線部隊の命運を握っている仕事だ。

「細やかな配慮や、周囲をよく見る観察眼が求められる仕事ですね」
「そんなに良いもののように言っていただけると照れます……ありがとうございます」
「鬼怒川さんに向いているように思います」

七海は相変わらずの無表情で、そんな温かい言葉を平然とこよみに伝えた。
こよみは耳の辺りがぼっと暑くなるような、そんな感覚を覚えた。

「そ、そうでしょうか……ありがとうございます」

再度、そんなことをぼそぼそと告げながら、こよみは水の入ったグラスを手に取った。
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