カトレア | 16


指定された店から徒歩二分の、とある駅。
こよみはそこの改札口近くのキオスクの扉の横で、胸に手を当てて深呼吸を繰り返していた。

火曜日。七海との約束の日。
こよみは白いサマーニットのトップスと紺のフレアスカートを着用して、日がな一日、落ち着かない様子でデスクに向かっていた。
髪はいつもの三つ編みを下ろし、ハーフアップをベージュのヘアクリップで留めた。
散々迷った末、思考は何周も回って、結局のところ無難なコーディネートに落ち着いた。
この日は無駄に緊張して早起きしてしまったから、昼休憩の後は眠くてたまらなかった。
だが、退勤時間が近付くにつれ徐々に覚醒し、時計が定時を告げると同時にこよみはオフィスを飛び出していった。

七海が先に到着していたらと思うと、緊張でどうにかなりそうだったからだ。
かといって、自分が先に着いて彼を待つ時間に平静でいられる自信もない。

だが、こよみがどんな心情であろうと、時間は平等に過ぎ去る。
こよみを乗せた電車は寸分の遅れもなく到着し、それは約束の時間の三十分前であった。
店の場所は、改札から見える。こよみはそれをしっかりと確認した後、キオスク付近をうろうろと歩き回り、深い溜め息と共に立ち止まった。

そして冒頭に戻る。

(高専の時は、学校や寮で七海さんと鉢合わせしたって、ここまで緊張しなかった。なんなの、もう。意気地なし!)

今時の女子中学生のほうがよっぽど度胸がある。こよみはそんな栓なきことを考えては、意味もなくしょげていた。
自分が恋愛初心者だからではない。そもそも恋愛と認めたくない。
自分が踏み出した一歩は、七海の恋人の座に向かう道程ではない。
七海は絶対に、自分のことをそういう対象と考えない。
行き交う人全員がデートと称する食事の席だとしても、それはきっと違うのだ。

(……こんなに全部否定して苦しくなるのに、会えないよりは良いだなんて、本当になんなの……)

七海は優しいから、こよみのワガママを一度だけ叶えてくれようとしたに過ぎないのだろう。
一方のこよみはというと、“恋人になりたいわけではない”のに“会いたい”というこの気持ちを、どう処理すべきか判断が付かない。
これから先、こよみが七海に会いたいと思う度に呼びつけるのは、きっと不可能だ。

――……いっそ愛想を尽かされて、わたしの期待をぺしゃんこにしてもらう、とか。告白して、潔く振られるとか。

自分の頭が思いつく考えの一つでしかないのに、こよみは途端に、さあっと血の気が引く思いがした。
こよみの中に存在する、七海へ向かう様々な気持ちは、常に“嫌われたくない”がセットだった。
好きにならなくていい、ただ、嫌いにならないでほしい。
七海にぺしゃんこにされるのは、きっとものすごくつらいことだ。
そして、愛の告白という手段は、こよみの中では“嘘をつく”ことと同義だった。

好きだ。でも、そうじゃない。
七海を困らせたくない。自分のことなどで煩わせたくない。
七海の障壁となる言葉は、絶対に伝えない。好きだから。
今までも、きっとこれからもずっと、大好きだから。
七海が選ばないことを、こちらから促すことは、死んでもしたくない。

「鬼怒川さん」

暗い面持ちのまま自身の足元を見つめていたこよみの頭の上に、不意に懐かしい声が掛けられた。
こよみははっとして顔を上げた。
数日前とは違う色のスーツ姿で、一般的な形の眼鏡を掛けた七海が、目の前に立っていた。
髪は数日前と同じように、きっちりと七三に整えられている。
こよみは呆然と、その顔を見上げた。自然と視線が交わる。

「七海さん」
「お待たせしました。すみません、店がわかりませんでしたか」
「いえっ、早く着いてしまったので……少しうろうろと……」
「そうですか。何か買うものがあれば、寄りますか?」

こよみの背後のキオスクの看板に一度視線を向け、七海は再度こよみの顔を見た。
こよみは「大丈夫です」と小さな声で答える。
七海はまた、そうですか、と言った。

「では、行きましょうか」
「はい……」

こよみがきちんと背筋を伸ばして、足を一歩動かしたことを見届けると、七海はこよみを先導してゆっくりと歩き始めた。
こよみの胸の中で、心臓が速いスピードを保ったまま、拍動を続けている。

(……普通だ…………)

先刻まで、一人で勝手に重たい感情をぐるぐるとかき混ぜていたせいで、こよみはあまりにもあっけない二度目の再会に、拍子抜けしていた。
そして、それはそうだろうと思い直す。ここは呪術高専ではない。周囲の人々の大多数は非術師の社会。ごく普通の都会の片隅である。
七海は呪術師だが、一歩仕事から離れれば一般人の男性と何も違いはない。

男女が待ち合わせをして、食事に向かう。
七海とこよみは今は、そんな、ありふれていて、どこにでもある光景の一部に過ぎない。

「…………」

七海の背を追って歩きながら、こよみはもう一度思い出していた。
否、忘れてはならないと自分に言い聞かせていた。

――わたしはもう絶対に、彼の隣に並んではいけない。
今日、食事が終わったら、深くお礼を伝えて、そうして笑ってさよならして、そして今度こそ、ちゃんとお別れするのだ。
もう二度と欲張らないように。
わたしを七海さんの中の良い思い出のままに、この先もしてもらえるように。



* * *



七海が指定した店は、カウンター席のある欧風レストランだった。
駅に近いこともあってか、若者受けの良さそうなカジュアルな雰囲気でありつつ、安っぽさはない。
こよみはほとんど利用したことのない駅だったが、会社からはそう離れていない。
七海が送ってきた、駅名と共にこの店を指定するメッセージを読んだ瞬間、こよみは彼の気遣いを確実に感じ取っていた。

二人用のテーブル席に向かい合って着席すると、七海はこよみを一瞥した後、目の前に置かれたメニューを手に取った。
こよみはその間もずっと、七海とは目を合わせられずにいた。
周囲の音も碌に耳に入らない。自分だけ水中にいるように、緊張していた。

「……あの、七海さん」
「はい」
「今日、ありがとうございます。会っていただいて、……お店の場所とかも、わたしの負担にならないようにしていただいて……」

こよみは、とにかくこれだけは言わなくてはと、ずっと考えていたことを口にした。
七海は“お店の場所”というキーワードを拾い上げると、ああ、と合点がいったように返事をした。

「後輩が、このレストランのことを言っていたことを思い出しまして。あなたの会社も近いし、丁度良いかと」
「後輩?」
「ええ。呪術師の」
「そうだったんですね」

こよみは、緊張に凝り固まっていた肩から、ようやく少しだけ力を抜いた。
自らの発声と、お互いの視線が交わったことで、身体がほんの少しずつ周囲の空気に順応を始めたような感覚があった。
独りよがりな決意が、こよみの身体をガチガチに固くしていたのだと、そこでようやく考え至る。
どこまでも自然体で、余裕のある雰囲気を纏う七海の表情を伺うように、こよみはうっそりと見上げた。

「食べられないものはありますか?」
「大丈夫です」
「お酒は?」
「あ……じゃあ、最初の一杯だけ……」
「……あまり、お腹が空いていないですか」
「え……と、……その、胸がいっぱいと、言えばいいのでしょうか……」

いっぱいいっぱい。余裕がない。
そんなネガティブな感情を、こよみははっきりしない言い替えと口調とで、ゆっくりと伝えた。

七海は何も答えず、ただこよみの表情を伺い見ていた。
その視線は、今度は交わらない。
prevnext

≪back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -