こんなにもクリスマスを意識してしまうのは、人生で初めてだった。

 この時期、街の至る所では白熱のクリスマスフィーバーが起きていて、こういったイベント事に無関心だった俺でも今回ばかりはどうしても街中のイルミネーションを前にしてなかなか綺麗ではないかと不覚にも目を奪われてしまったり、予定より1時間以上も早く待ち合わせ場所に到着したりと我ながら浮かれている自覚は十分にあった。
しかし、何の考えもなしにここまで早くやって来たわけではない。手を繋いで楽しそうに歩いて行くカップルとすれ違いながら、俺は昨日の休憩中のことを振り返る。

「あ、義勇さんお疲れ様です〜」

 休憩に入ると、バックヤードでは遅番の童磨が仕事前の腹拵えとして片手にはサンドイッチ、もう片方の手にはファッション雑誌となんとも行儀の悪い態度で俺を見据えた。とまあそれは別にどうでもいいのだが、注視すべき点は童磨が雑誌を閉じようとした際に見えた"彼女が喜ぶ!クリスマスプレゼント"と書かれたページだった。周知のとおり、苗字と俺は付き合っているわけではない。なので俺が今、目と鼻の先にあるこの雑誌に底知れぬ興味と関心を抱いていることが当人に知られた日には果たしてどんな顔をされることだろうか。冷めた目でこちらを見る苗字の顔が勝手に脳内に浮き出てゾッとしてしまう。

「なあ童磨、この本ちょっと借りてもいいか」

 だが、明日は一年の中でも、俺の中でも特別な日。苗字には取材を引き受けてくれたという借りもあるので、この気持ちをどうにか形にして返したい、それが本音だった。しかし経験の乏しい俺はこんな時何を贈るのが正解かよくわからなかったのだ。実用的なハンカチ?それとも仕事で必ず使うであろう筆記用具…?なんでもいい、なんでもいいからとにかく今はヒントが欲しい。

「え?別にいいですけど……読み終わったら俺のカバンに戻しといて下さいね〜」

 勘繰ることも疑うこともせず雑誌を差し出してくれた童磨に、少しだけ良心が痛んだ。ありがたく受け取っては心の中で重ね重ね礼を言い、何ともないような素振りで次々とページをめくっていく。ファッション雑誌というだけあって、中身は女性が喜びそうなコーディネートだったり、髪型のアレンジがたくさん載っている中、後半部分でようやく例の小見出を発見する。ええとなになに、彼女が喜ぶプレゼントトップ3はアクセサリー、バッグ、香水……?流石カップル向けの記事、付き合う前にプレゼントをするには相当リスクの高いものばかりだ。まあアクセサリーやバッグは論外として、香水……これならまだ少しは現実味を帯びている気もするが、そんなもの無くたって苗字からはいつも清潔感のある石鹸のような匂いがしているのに、他の匂いでそれを掻き消してしまうなんて不本意たるもの。よって香水も却下である。一応ランク外の項目にもザッと目を通してみるが、並んでいたのは腕時計、財布、化粧品とやはりいまいちピンと来ないものばかりで、

「……」

 困り果てた俺は静かに雑誌を閉じ、腕を組んでは宙を仰いだ。どうしよう、参ったぞ。ヒントを見つけるつもりが余計悩む結果になってしまったではないか。……仕方ない、プレゼントは当日決めるとしよう。運良くも、明日の待ち合わせ場所から少し離れた駅ビルの一角に某生活雑貨店があるということは既に調べ済みだったので、そこに行けばきっと何かしら見つかるに違いない。俺はそれ以上深くは考えずに、意識を賄いのエビピラフに集中させたのだった。

そして、来たる今日。

 雑貨店に足を踏み入れた瞬間、俺はこの楽観的な考えが大きな誤算だったということに気付いてしまう。商品、つまり選択肢が多すぎるのだ。たとえばシャンプーにしても棚二つ分はびっしり並んでいるし、そもそも裏面の成分表記を見ないと何の商品かわからないものもたくさん存在しているではないか。数々の困難が降りかかる中、タイムリミットぎりぎりのところで選んだのはなんの面白味もないただのハンドクリームだった。可愛らしいラッピングが施されるとまだ幾分はマシに見えたが、急いでいた俺はプレゼントを雑にポケットに突っ込んでは、全速力で苗字の待つ場所へと向かって行く。ひたすら走り額に汗を滲ませながら到着した先で、手を擦り合わせながら立っている苗字の姿を視界に捉える。

「あ、冨岡さ」
「すまない苗字、早くから着いてはいたんだが買い物をしていたら思ったより時間が経ってしまっていて……!」

 息継ぎすら忘れ、ひたすら言い訳を述べた俺が余程面白かったのか、苗字は口に手を当ててプッと吹き出しては肩を震わせている。

「あはは!大丈夫ですよ、そんなに待ってませんから。それより見て下さいよ〜アレ!すごい迫力ですよね」

 苗字が言うアレとは、イルミネーションの更に奥にある巨大なツリーのことだった。こんなに離れているというのに相当高く見える。見当も付かないが一体何メートルくらいあるのだろう。もっと近くで見てみようと俺達はツリーがある方に向かって歩き始めるが、人が多いせいで苗字との距離も必然的に近くなってしまい、

「あ、ごめんなさい」
「……いや、俺こそ悪い」

たまに肩が触れるだけでこんなにも目が泳いでしまう自分が無性に情けない。

「そういえば今日観る映画って大正時代のお話なんでしたっけ」
「あ、ああ。実話を元に作られた恋愛映画らしいな」
「へえ、そうなんですか!当時はやっぱり恋愛や結婚は自由が利かなかったんでしょうかね」
「大正時代といっても初期と後期では全く背景が違ってくるから一概には言えないが、恐らく恋愛も見合いが主流だったり、そうでない場合でも親の合意が必要だったんじゃないかと思う」
「年号としては短かくても、激動の時代だったんですね」
「世界大戦や大震災もあった時代だからな。それに大正といえば都市化が著しく進んだり西洋文化が取り入れられ始めたことでも有名…」

 ここまで話したところで、自分としたことが仕様もない知識をひけらかしてしまった、とハッとする。興味深げに聞いていた苗字には悪いが、これ以上余計なことを口走る前に自ら言葉を噤む。

「えっ?終わりですか、今の話」
「俺の説明が無くたって映画を観れば全部わかる」
「そんな、私日本史詳しくないんでもっと聞かせて下さいよ〜」

 せっかくの心躍るような場が毒にも薬にもならない自分の話で埋まってしまうのが嫌だった。そもそもこんなどうでもいい知識等、疾うの昔に全部捨て去ってきたはずなのに、何故まだ頭に貼り付いているのか。そうやって勝手に気持ちを陰らせては、いざツリーを前にして「うわ〜やっぱり高いなぁ」と無邪気に笑う苗字にこちらもつい目を細めてしまう。過去はどうあれ、こうして人並みに行事を楽しみ、人並みに誰かに特別な感情を抱く。当たり前のことが当たり前に出来るようになった今の自分はきっとすごく幸せで、それには苗字の存在が必要不可欠で。

「あ!あっちにも面白そうなのがありますよ、見に行きましょう!」
「……うん、行ってみよう」

当人は、この想いに一体どこまで気付いていることやら。



◇ ◇ ◇



 映画が始まる直前まで外で冬の景色を楽しんだ俺らは、館内の飲食物販売をしているカウンターでホットレモネードを二つ購入すると、大急ぎで上映部屋に滑り込んだ。息を整えながら観始めた作品は、珠世という年上の未亡人と書生である愈史郎という青年の甘くも切ない物語で、先述の通り、見合いではなかった二人の恋は周りには認められず、それでも自分の気持ちを貫こうとする青年の姿はどこか胸に刺さるものがあった。見終わった後の感想は苗字も俺とほぼ同じだったらしく、

「『珠世さん、貴女にそんな顔は似合わない。どうかいつものように可憐に笑って下さい』……いや〜たまりませんね、愈史郎のこの台詞!冨岡さんもそう思いません?」
「もしかして今のは物真似なのか」
「!そ、そこは今気にするところじゃないですから!あくまで台詞が良かったねって話です」

 似ているかどうかは別として、一人で劇中の愈史郎と珠世の真似をしながら熱く語る苗字は見ていて飽きない。というより、ずっと見ていたいとすら思う。そんな風に話しながら映画館から外へ出て行くと辺りはもう暗く、星もパラパラと輝きを見せ始めていた。

「苗字、この後なんだが……まだ時間あるか?」

 別れるには惜しい。出来ればもう少し、あと少しだけでいいから同じ時間を共有したい。「はい、まだまだありますよ」という肯定の返事に安心した矢先、

「申し訳ありません、本日は予約でいっぱいでして──」

 雰囲気の良さそうな店を見つけては断られること3軒目。底知れぬクリスマスの力に唖然としていると、「あ、じゃああそこなんてどうですか?」そう言う苗字が指していたのは24時間営業しているファミレスだった。

「え……ファミレス、か?」
「はい、この調子だと多分どのお店も予約なしじゃ入れなさそうですし」
「……俺はいいんだが苗字は、」
「?私だって勿論いいですよ」

 いや、良くはないだろう。ここまで頭が回らなかった自分が本当に恥ずかしい。複雑な気持ちのままファミレスに入るとこちらも意外と混雑していてクリスマスのブランド力には本当に驚くばかりだった。
窓際の席に案内されては腰を下ろし、パスタのセットを二つ注文したところで俺は口を開く。

「……すまない、こういった日にはどこも予約が必要だったんだな」
「あはは、本当に気にしてないですし謝るのはもう禁止です」
「……」
「それに、ファミレスって楽しいじゃないですか。なんだか学生時代に戻ったみたいで」
「学生時代?」
「ええ、部活が終わったとかテスト前はよく利用してたんで懐かしいです。あの、冨岡さんは学生時代どんな感じだったんですか?」
「どんなって……」
「部活とかやってました?あ、生徒会とかも似合いそう」
「部活も生徒会もやっていない。時間を注ぎ込んでいたのは勉強ぐらいだ」
「へえ、凄…」
「凄くなんかない。俺の家系は医師になる奴が多くて、物心ついた頃には勝手に自分もそうなるものだと思い込んで毎日勉強しかしてこなかったんだ。今振り返ってみても、当時はつまらない毎日だったと思う」
「…そんな、つまらないだなんて」
「フォローは要らない。それにもう過去のことだと割り切っている、だから同情もしてくれるな」

 苗字は今、何を考えているんだろう。あれこれ言葉を捜しているようだが、俺としては流してくれた方がかえって有難いのに。
テーブルの上にある氷水の入ったグラスを見つめながら、過去のことを思い返してみる。

『よくやったな義勇。また校内で1番だなんて、父さんも鼻が高いぞ』

 中学受験に成功し、中高一貫の所謂進学校に通うことになった俺は来る日も来る日も学校と塾を往復する生活を送っていた。幸い、勉強は嫌いじゃなかった。なぜなら努力が数字や評価となって形になる、これ以上合理的なことは他にないと思っていたから。結果が出れば当然父は喜び、母は『このままいけば将来はお父さんみたく立派なお医者様になれるわね』と優しく微笑む。それだけが自分の存在価値を認めてもらえる唯一の手段だと思っていた俺は、更に勉学に精を出した。気を許せるのは、塾で知り合った錆兎という奴只一人。それでもこの時の俺は別に自分が不幸だとか間違っているとは少しも思わなくて、今となってはこの経験と時間こそが他人には触れられたくない過去の汚点となっていたのだった。特に、俺なんかとは違って実りのある学生生活を送ってきたのだろう苗字には出来るだけ知られたくない。……そんな時、耳に飛び込んできたのは、

「そんなこと、言わないでください」

 憂いを断ち切るような、力強い声。もしかして苗字は怒っているのではないか、そう思い顔を上げてみるがそこに怒りの色はなく、代わりに叱られた子供みたいにしょんぼりと眉を下げる苗字の顔があった。

「お願いですから、そんな悲しいこと言わないでください。冨岡さんがつまらないと感じていた日々だって、それが積み重なって今の冨岡さんがあるわけじゃないですか。過去を否定するのは今の自分の存在も否定することなんじゃないかって、私はそう思うんですけど……」
「……苗字」
「冨岡さんは自己評価が低すぎるんです。自分が思っている以上に冨岡さんは凄い人なんですから、これからはもっと胸を張って生きて下さい。じゃないと親御さんにだって失礼ですから。あ、あと自分の人生を蔑むのも今日で終わりです」
「……」

 口を挟む暇がないくらい、苗字の口はよく動く。多分隙を与えてしまうと俺が卑屈な言葉を繰り出そうとしているのがわかっていたからだろうか。「……それに」一度伏せた視線を、再び合わせる。

「私そんな過去のことも引っくるめて、冨岡さんのこと…その、いいなって、思いますし」
「……え」
「……よしっ今夜は飲みましょう!」
「……苗字、さっきのって」
「店員さんすいませーん!シャンパン二つ、グラスでお願いします!」
「お、おいどうしたいきなり…」
「乾杯するんですよ、キリストの誕生と冨岡さんが自分の殻を破ったお祝いに」

 ……破ったというか苗字が外側からだいぶヒビを入れてくれただけだと思うんだが。それに、いいなって何だ。もっと掘り下げて教えてくれないとわからないじゃないか。改めて苗字に聞こうにもちょうど料理やシャンパンがテーブルにやって来て、そういった空気はすっかりどこかへ流れ去ってしまっていた。モヤモヤというよりかはむしろソワソワした気持ちのまま食事を進めていると、ポケットに入っていた苗字のスマホが光っては振動していることに気が付く。

「わ…!ご、ごめんなさい」

画面を見た苗字の顔が忽ち曇っていく。恐らく仕事関係の連絡なのだろう。

「出ないのか」
「……出ます、出ます…けど」
「?」

 しばらく黙っていた苗字だったが、あまりにも長い着信に「ちょっとすみません…」と折れては店の外で短い会話をし、それが終わるとすぐにまたこちらへ戻って来た。

「あのー……非常に申し上げ難いんですけど」
「仕事、か?」
「……すいません。休日出勤していた同僚が私の記事だけ全部飛ばしてしまったみたいで、急遽やり直さないといけなくなりまして……本当に、何とお詫びをすればいいやら」
「いいんだ、こっちのことは気にするな。とりあえず外に出よう」

 その後もしつこく謝る苗字を宥めるのは一苦労だったが、何とか会計を済ませては駅の改札を通り抜けた所でお互い立ち止まる。楽しい時間は終わり、今日はここで別れなければならない。

「あっそうそう、冨岡さんこれ……」

 苗字がカバンから取り出したのはクリスマスカラーの紙袋だった。中にはラッピングが施された何かが入っている。

「今日誘ってくれたお礼です。中身はハンドクリームなんですけど、水仕事の時でも使えるみたいなんでよかったら、是非」

 苗字……。言葉に出来ない感動に浸っては、ここで自分もプレゼントを用意したことを思い出し、

「俺も、用意してた。こっちも中身はハンドクリームだ」
「えっ私にですか?……嬉しい、ありがとうございます!大切に使いますね」

 長い間ポケットに入れっぱなしでクシャクシャになってしまった袋を大事そうにカバンにしまう苗字とは、本当にこれでお別れである。

「それじゃあ、また。おやすみなさい」
「苗字も気をつけて」

 こちらに背を向け、どんどん遠くなっていく苗字の姿をただ黙って見つめていた俺だったが、自分もそろそろ帰ろう。そう思った瞬間、

「冨岡さん!」

 振り返ると、ちょっと離れたところで苗字が声を張って俺の意識と身体を呼び止めた。

「今度またご飯食べに行きましょうねー!約束ですよ!」

 マスター、俺はもう無理かもしれません。苗字のことをただの常連客だと思うことも、この気持ちを自分の中だけに留めておくことも。

喧騒の中で呟いた「ああ」という小さな声は、自分だけが聞こえていた。
(2020/07/09)

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