今年も残すところ2週間となった今、巷では赤と緑を中心としたクリスマスカラーが目立つようになり、研ぎ澄まされた冷たい空気も合間って街全体が煌びやかなヴェールに包まれているように感じた。
私が毎日のようにお世話になっているこの喫茶店でも、空いているスペースにツリーを飾ろうと先程からマスターが指示を出し、見るからに重厚感のある本体を童磨さんが歯を食いしばりながら運ぶという様子がちらちらと視界に入る。何とか設置が完了すると、童磨さんはその場にヘタヘタとしゃがみ込んだ。
「マスター、俺の腕今日はもう使いものにならないかも……」
「手伝ってくれてありがとう、童磨。ちょっと早いけど今から休憩に入っていいからね」
「って何で義勇さんこんな時に限って居ないかなあ……休憩にしたって長すぎでしょ」
"義勇さん"という単語に身体がピクリと反応してしまう。実は、さっきから気になっていたのだ。マスターの産屋敷さんが経営しているこのお店はいつもお昼時や午後のティータイムの時間帯になると会社員からお年寄りまで幅広い年代の客で賑わいを見せているのだが、今日はカウンターで黙々と仕事をしているはずの彼の姿だけ見当たらず、どこかのタイミングでマスターか童磨さんに不在の理由を聞こうとしたけど取り込み中の二人を見ていると声を掛けることすら躊躇ってしまったのだ。みんな忙しそうだし、そろそろお会計をお願いしようかと思った時、ぷりぷりと怒りながら休憩に入る童磨さんと入れ替わりで冨岡さんが店に戻って来た。
「あ……苗字」
冨岡さんは私を見つけると、早足ですぐ隣までやって来る。そして「今ちょっといいか?」と聞いてきたので私も無意識に首を上下に振った。
「いいですけど……どうかしたんですか?」
「苗字に取材してほしい店がある。できれば取り急ぎお願いしたいんだが」
驚きのあまり、瞬きを何度も繰り返す。まさか冨岡さんから仕事の依頼をされる日が来るとは、誰が予想できただろうか。とりあえず、これだけでは事情が呑み込めなかったので詳しく聞いてみると、冨岡さんの知人がもうすぐ店を畳もうと考えているらしく、これまで宣伝等も行っていなかったため客足はどんどん近隣のデパートの地下に併設されている専門店に流れて行ってしまい、経営が苦しくなってきたという話だった。私はうーん、と呟いて腕を組んだ。
「話はわかりました。私としては今すぐにでも協力したいところなんですけど、実は取材って上からの許可が下りないと出来ないことになってまして……」
記事にしたいお店を見つけた時、ライターである私たちはまず実際に商品を購入し、上司の元へ持って行っては判断を仰ぐ必要がある。通常ならこの一連の流れは二週間もあれば事足りるが、今は年末年始に向けて会社全体がバタついているため、冨岡さんの希望を叶えるのは早くとも一ヶ月…いや下手したらそれ以上掛かってしまう恐れも大いにあるのだ。
あからさまにシュンと顔を曇らせる冨岡さんに、念のため「ちなみにそれってどこのお店なんですか?」と尋ねてみると、「隣の和菓子屋だ」と返されて私は本日二度目の驚きを味わった。
「隣って……えっ、ここを出て左手にあるお店ですか?」
「?あ、ああ……そうだが」
記憶を辿り、以前喫茶店に寄った帰りに隣の和菓子屋さんで詰め合わせを買って同じ部署のみんなに振る舞った時、たしかそこに居合わせた上司も菓子をつまんでは太鼓判を押して気に入っていたことを思い出し、冨岡さんに断りを入れてから私はスマホをもって一旦店の外へ飛び出した。もしかしたら、もしかするかもしれない。一筋の希望の光に縋るよう、直属の上司に連絡を入れて交渉してみたところ、唐突な話に驚きながらも私が今抱えている原稿に支障を来さないのであれば取材しても良いという許しが出たので、興奮冷めやらぬまま私は急いで喫茶店へと駆け戻った。
「やりましたよ冨岡さん、今上司に連絡してみたらすんなりオッケー出ました!」
「!本当か……?」
「ええ、この調子なら多分遅くとも年明けには記事として載せられると思いますよ。良かったで……」
すね、と言い終える前に、両手をぎゅっと冨岡さんの細長くもゴツゴツとした手で覆われ、言葉どころか思考もどこかへ吹き飛んでいってしまう。
「──恩に着る。ありがとう、苗字」
指先から感じた熱は留まることを知らず、顔や心臓、やがて全身へと広がりを見せていく。「いえ」とかろうじて返す私の顔は、今、どれくらい赤くなっているのだろう。
それは遡ること数日前、休憩から戻ろうと店に向かって歩いていた時のことだった。和菓子屋の店主が自動ドアの部分に貼り紙をしていることに気付き、何気なく駆け寄ってみたところで俺は「えっ」と短い声を溢す。
「お店、閉めるんですか」
「まあ、こんにちは冨岡さん。そうなの、来年の3月いっぱいでもう閉めようと思ってるのよ」
うちよりも遥かに歴史の長い店を閉める理由は経営難によるもので、このご時世仕方ないことよね、と苦笑いをする店主から本当は手放したくないという想いがひしひしと伝わってきた。店が隣同士ということで何かと関わりがあった上、俺がこの店で働き始めた時も「あらあら、お若いのに感心ねぇ。大変なこともたくさんあると思うけど頑張ってね」と温かい言葉をかけてくれた店主。……お節介が過ぎるかもしれないが、この人のために何かできることはないのだろうか。頭の中で必死に考えた末、行き着いた結論は苗字に記事を書いてもらうことだった。
苗字が快く頼みを引き受けてくれたおかげで、4日後の今日、隣の和菓子屋では早速午後から取材が行われていた。自分がきっかけで事が進んでいる以上、勤務中だというのにどうしても意識がそちらへと向いてしまう。
「義勇、そんなにソワソワして何かあったのかい?」
マスターの声でハッと我に返る。あ、いや…と濁しているとマスターは何かに気付いたような顔で俺に笑いかけた。
「そっか、今日は名前ちゃんが隣で取材をする日だったね。なんなら義勇も今から行ってみたらどうだい」
「え……いいんですか」
「ああ、ちょうど休憩の時間だし、ゆっくり見学しておいで」
マスターの言葉に甘え、俺は上着を羽織うとすぐに一軒隣へと向かい、まずは外から様子を確認してみることにした。覗いた感じ、店内には客が一組いるだけで苗字の姿は見当たらない。多分、奥の厨房や従業員専用の部屋等で取材をしているんだろう。予想外の事態にどうしようかと頭を悩ませていると、背後からトントンと軽く肩を叩かれ、振り返った先にいたのは取材中であるはずの店主だった。
「こんな所で何してるの、冨岡さん。寒いから早く中に入りましょう」
「あの、今って取材中じゃ……」
「少しだけ休憩させてもらっていたのよ。苗字さんとお話するのはとっても楽しいんだけど、もう年だからずっと口を動かすのも大変でね。そしたら苗字さん、すぐに気付いてくれて『私、お腹が空いたので一旦休憩にしましょう!』ですって。ふふふ、気遣いが上手なお嬢さんね」
「……そうですね」
自分が褒められたわけではないのに、つい口角が上がってしまう。密かに嬉しい気持ちを噛みしめながら「さあ、どうぞ」と手招きをする店主に続いて足を進めると、店の中ではあんこの甘い匂いと、蒸気のようなムワッとした暖かさを感じた。
「今からお茶を淹れるから、冨岡さんもこちらにいらっしゃい」
そう言って買って来たばかりの茶葉を袋から取り出しながら、店主は俺を厨房の方へと案内してくれる。そこではカシャカシャとシャッター音を響かせては色んな角度から和菓子の写真を撮る苗字の姿があり、満足のいく写真が撮れたのか「よしっ」と言って顔を上げては目が合った。
「あれっ冨岡さん来てたんですね!もう、声ぐらい掛けて下さいよ〜」
「ああ、すまない。…どうだ、取材は。順調か?」
「へへへ、我ながら良い写真がいっぱい撮れましたよ」
一眼レフの画面越しに苗字が撮った写真を二人で眺めていると、熱い茶を持った店主が「あらあら、お二人さん随分仲良しなのねえ」と含みのある笑みをしながら近づいて来て、ようやく身体が近いことに気付いた俺たちは慌てて距離を取る。事実であろうとなかろうと、こういう風に茶化されるのはどうも苦手だ。そんな空気を、カラッとした苗字の声が掻き消していく。
「わ、いい匂い!店主、これって何のお茶ですか?」
「琵琶茶っていうのよ。クセがなくて飲みやすいの。どうぞお飲みになってね」
「ありがとうございます。ほら、冨岡さんもいただきましょ」
まだ多少の気恥ずかしさを残しつつ、俺も空いていた椅子に座って茶を頂いた。楽しそうに話す苗字と店主は談笑もほどほどに気付いた時には取材の続きを再開していて、いつの間に……と驚きながらも完全に席を外すタイミングを失った俺はただその様子をぼんやり眺めることにした。
二人の会話は10分以上続き、その間途切れることなくテンポ良く話を進めていく苗字は本当にライターなんだなと当たり前のことを考えては、こんなことも考えた。……俺は今まで、苗字に対して大きな誤解をしていたのかもしれない。苗字がいつも忙しそうにしているのはまだ入社一年目で仕事そのものに慣れていないせいかと思っていたのだが、今日初めて働きぶりを間近で見て、その考えはガラリと変わった。真面目過ぎるのだ。良い意味でも、悪い意味でも。だから俺は、そんなこんなで取材が終わった後も店主に何度も礼を言ったり、予定より長くなってしまってすみませんと申し訳なさそうに謝る苗字のことが心配でもあり、
「じゃあ行きましょっか、冨岡さん」
なんだかすごく、魅力的だと思ってしまうのだ。
▽
翌日、立派な菓子折りを持った店主がうちの店へとやって来た。本当は昨晩マスターに謝礼を渡しに来たそうだが、金銭は受け取れないと断ったためその代わりの品物らしい。
「冨岡さん、うちの店のために働きかけて下さって本当にどうもありがとう。従業員のみんなと話し合ったんだけどね、おかげでもう少しだけ頑張ってみることにしたのよ」
「……いえ、俺は何もしてませんから」
「ふふふ、あのお嬢さんも昨日同じこと言ってたわ。私は何もしてません、って」
よく似ているのね、といたずらっぽく言われて悪い気はしなかったが、昨日と同様どんな反応をすればいいのかわからない俺はつい押し黙る。すると店主はポケットからガサゴソと何かを取り出し、大事そうに両手で持って俺へと差し向けた。
「ねえ、よかったらコレ、苗字さんと使ってちょうだい」
渡されたのは映画のペアチケットで、反射的に受け取ったのはいいがそこに印字されている文字を見てギョッとしてしまう。"12月25日に限り有効"って……その日はどう考えなくてもクリスマスではないか。偶然にもこの店は曜日的に定休日なのだが、カップルが大事にしているイベントランキングがあるとしたらバレンタインと肩を並べて良い勝負になりうるであろう日に苗字を誘う勇気など、俺には到底あるはずもなく。店主が去り、それからしばらくして苗字がやって来るまでたっぷり時間をかけて自問自答してみたが、やはり結論は無理の一言に尽きるのだった。しかし、「もうすぐクリスマスだね。名前ちゃんはその日も仕事?」とマスターの何気ない発言から状況は少し変わってくる。
「えへへ〜聞いて下さいよマスター、25日は最近休みが少なかったからって社長が会社全体休みにしてくれたんです!」
「へえ、それは良かったねぇ」
「でもまあ予定も何も無いんで、多分普通の休みの時とほとんど変わらないんですけどね」
俺も苗字も仕事が休みで、その上お互い予定も無いときた。……とすれば、これはもしかするとなにかの啓示なのではないだろうか。以前童磨に対して感じた『公私混同』という言葉がそっくりそのまま自分に返ってきたような気もするが、きっかけはあくまでも店主の御厚意によるもので、別に俺の意思が先行して動くわけではない。そう、だからこれは誰がどう見たって例外なのだ、と半ば強引に決めつけては意を固めた俺だったが、
「それじゃあ…マスター、冨岡さん、ごちそうさまでした」
気付けば苗字は既にお代を払い、今にも帰りそうな雰囲気を出しているではないか。俺はそんな後ろ姿を慌てて追いかける。
「苗字!」
店を出たところで呼びかけると、苗字はきょとんとした顔で振り返った。
「……その、25日なんだが」
「……?」
まずい、この後の台詞を考えるのを忘れていた。どうにか頭をフル回転させ、出てきたのは、
「よかったら、一日付き合ってくれないか」
……なんか違う気もするが、誘えたことには変わりない。「えっ?………は、はい」というか細い返事が聞こえたのは、それから少し経ってからのことだった。