幼い頃から、私はコーヒーの匂いが大好きだった。特に豆を挽いた瞬間のあの香りはその時にしか味わえない特別感があり、想像しただけでも何とも言えない幸せな気持ちにさせてくれる。
『おはよう名前。朝ごはんできてるわよ』
両親は私が生まれる前から喫茶店を経営しており、自宅の一階が喫茶スペース、二階が私たちの生活スペースとなっていた。朝起きるとまずダラダラと身支度をし、通学鞄を片手に一階へ降りるとお母さんが用意してくれたお店でも一番人気のモーニングを食べる。それが私の日課だった。
ちなみにモーニングとは、厚切りトースト、ゆで卵、ベーコン、コールスロー、フルーツ入りのヨーグルトが乗っていてお値段はなんと300円。私が客だったらきっと毎日大喜びで通っていたと思うし、それに加えてお父さんが淹れてくれたホットコーヒーがあればもう何も言うことはなかった。
「──おい」
親元を離れてから早くも五年。自分でもどうにかあのコーヒーの味を再現したくて何度か挑戦してみたものの、お父さんのようにうまく淹れられたことなど一度も無くって。
「──おい」
必要な道具は全て実家から持ってきたというのに、何でダメなんだろう。何が違うんだろう。豆の挽き方?お湯の分量?それとも、
「──おい」
「え?」
「モーニングだ」
不愛想な店員はわざとらしくガチャンと音を立てながら私の前にモーニングのプレートとホットコーヒーを置いた。ほんっと、この男ときたら……。せっかくの清々しい朝が一瞬にして台無しである。
「冨岡さん、そんな風にしてたら皿割れちゃいますよ」
「割れない程度の力で扱っているから大丈夫だ」
「はいはいそうですか」
「喋ってる暇があるならさっさと食べろ」
この高圧的かつ無礼な男、冨岡義勇は私がほぼ毎日通っている喫茶店のバリスタである。愛想が無ければ接客能力もほぼ無いに等しく、おまけに口を開くとさっきみたいな嫌みったらしい言葉ばかり。会話はキャッチボールが大事、というけれどトゲだらけの球ばかり投げてくる場合はどう対処するべきか。その答えは簡単で、こちらも同じくトゲ付きの球を投げ返すか避け続ければいいのだ。
普段は前者でも、今日はこれから仕事を控えていて後者を選ばざるを得なかった私は黙ってモーニングを食べ、時折まだ湯気が立っているコーヒーも口へと運んだ。……悔しいけど、冨岡さんの淹れたコーヒーはいつだって完璧だ。苦味と酸味のバランスといい、まだ完全に機能していない朝の脳にも直接呼びかけてくれるようなキレのある味わいといい、今日の一杯もやっぱり完璧だった。悔しいけど。もし仮にいちゃもんをつけてくるような人がいるとしたら、きっとそれはただのクレーマーかコーヒーがそんなに好きではない人だと私は思う。
「……なんだ」
「……いえ、別に」
カウンターのど真ん中の席に座っていると、真顔でグラスを拭いている冨岡さんが嫌でも視界に入ってしまうし、運が悪ければこうして目が合ってしまって露骨に嫌な顔をされるから腹が立つ。それでも、私にはこの席に座らなければならない絶対的理由があった。
「あ〜名前ちゃん!もう来てたんだ、早いねえ」
「童磨さん!」
絶対的理由を目の前にして、私の声は1オクターブ高くなる。深い茜色のライダースジャケットを着た童磨さんは今日も抜群にかっこ良くて、自然とため息が零れてしまう。
「あれ?名前ちゃんなんかいつもと違うね。もしかして髪切った?」
「えーなんでわかるんですか〜?前髪ちょっと切っただけなのに」
「えへへ、そりゃあますます可愛くなったんだから気付いて当然でしょ」
「も〜やだなぁ童磨さんったら!」
「お世辞を真に受けるな、お世辞を」
「あの、冨岡さんはちょっと黙っててくれませんか」
童磨さんとの貴重な時間によくもまあズカズカと……。先程の冨岡さんの説明に空気も読めない、と付け加えておこう。私がげんなりしている間、童磨さんはスッと店の奥に姿を消したかと思いきや、すぐに冨岡さんと同じ白シャツにカフェエプロンといった制服姿で登場した。はあもう最高、神様どうもありがとうございます。
「ねえねえ名前ちゃん、まだ時間ある?これからスコーン焼くからよかったら食べてってよ」
「うわ〜ごめんなさい、今日はそろそろ行かないとだめで」
「そっかあ、残念」
そんな顔しないでください仕事に行きたくなくなるから!それから店を出るまでの数分間、私は奥にあるキッチンに熱い視線を注ぎ続けた。店内に設置してある席の中で、キッチンの様子が見えるのは今わたしが座っているカウンターのど真ん中ただ一つ。だから私は必ずここに座るのだ。
たとえ目の前に大の苦手な男がいようとも。
「冨岡さん、お会計お願いします」
「680円だ」
「あー…すいません、大きいのしかないんですけど1万円でもいいですか?」
「……はぁ」
いちいち癇に触る人だなぁと苛立ちながらも、お釣りを受け取って店を出る。すると、「名前ちゃーん!」少し歩いたところで、急に童磨さんの声がして、しかも名前を呼ばれて慌てて振り返る。
「今日も一日頑張ってね〜!」
人目を気にせずブンブンと手を振る姿に、胸がじんわり熱くなっていく。今日の仕事はなかなかハードだけど、童磨さんにこんなこと言われたら残業だって何だって全力で頑張っちゃうんだから!
私も負けないくらい大きく手を振り返して、次こそ本当に会社へと向かうのだった。