早まる鼓動を抑え切れず、そわそわと神童の家の車が来ては中で落ち着きなく視線をあちこちにやる悠那。
病院が見えて、車から降りようとした時なんて転びそうにもなったし、危うく病院の中で走っては看護師の方達に何度か注意を受けた。それでも、抑えられない。
早く、早く会わないと、気が済まない。

息を切らしながら階段を駆け上がっていく。
息苦しさがあるけれども、それでも自分の足は止まらない。止まりたくない。止まらせない。
そして、とある病室に辿り着いた時、自分の足はぴたりと止まった。

――410 上村裕弥

そう書かれた札が一枚付いていた。
ここが、自分の兄の居る病室。
それを自覚すると共に、再び緊張が走った。毎日のようにこの病室に通っていた筈なのに、毎日この病室の扉を開けていたのに、今では足が疲れたから休みたいと言わんばかりに立ち尽くしている。
中にはきっとこの病院の院長さんと、看護師が数名居るのだろう。中から僅かに話し声が聞こえてくる。
今日目が覚めたのだから、忙しいのだろう。

『―――…』

入って、いいのだろうか…
そう感じてしまった。もし忙しくて、今自分は入れない状況で裕弥に顔すら合わせて貰えなかったらどうすればいいのだろうか――…
自分が会いに来て、その所為で病状がまた悪化してしまったらどうしようか―――…

早くもマイナスな事しか考えられなくなってしまい、先程まで動かなかった足は、そんな思考になった瞬間、前ではなく後ろの方に後ずさる。
そんな自分の正直な体に、もはや嘲笑すら出来た。

ここで帰ってしまったら、わざわざ神童が車を呼んでくれた意味がない。
雷門の皆が、背中を押してくれた意味がない――…
意を決して、悠那は下がっていた足を無理やりにでも踏みだし、病室の扉へと手を伸ばしてはその引き戸を開けた。

窓が開いていたのだろうか、扉を開けた瞬間にぶわっと、自分の髪を気まぐれな風が揺らす。
思わず目を瞑りそうになったが、何とか開けたままを維持して、そのまま中をゆっくりと見渡した。
最初に見えたのは、まず白い部屋に、一つのベッド。なんて、殺風景な部屋なんだ、と思った。
そして、次に見えたのは、その白に負けないぐらいの白を持った、上村裕弥の髪と、彼の虚ろな目――…
周りには、そんな彼を守ろうとしているような院長の姿と看護師の姿が見えた。

「キミは…」
『あ、その…っ、私…』
「谷宮悠那さんだね」
『!』

院長が、驚いたようにこちらを見てきて、悠那も思わず怯んでしまう。やはり、面会の事も何も伝えていないのに、この病室に来てはいけなかったのだろう。
そう思うも、次に来た自分を呼ぶ声に目を見開かせる。呼ばれた方を見てみると、そこには随分と老けた、おばあさんのような看護婦がそこに立っていた。

「あなたの事は、昔からよく知っていたわ」
『えっと…?』
「ふふ、あなたは覚えてないでしょうけど…あたしは覚えていますよ。よく怪我をしてはこの病院に来ていたものね。それから剣城京介っていう男の子もね…」
『あなたは…』
「そうねぇ…あたしはこの病院の婦長をやってる者よ。…院長、彼女はこの裕弥君の妹なんです。少しの間、面会出来ますでしょうか」
『!』

どうして、兄妹だと言う事を…、そう言いたかったのに、どうしても言葉に出来ず、悠那は固まってしまう。そして、自分の事を婦長と名乗ったその女性は院長にその事を伝えると、静かにこちらを見て小さく微笑んだ。

「なんと…そうだったのか…本来なら遠慮して貰いたい所だが…ご家族となれば話しは別だ。だが、ほんの少しだよ。まだ彼の体は起きたばかりだから完治していない。我々が処置を行う時には出て貰うよ」
『!あ、ありがとうございます!!』

ぺこっと、90度になりそうなくらいの勢いで頭を下げ、院長たちがこの病室を出ていくまで下げ続けた。あの婦長さんの事が気になりかけてはいたが、もうそんな事は気にせず、顔をゆっくりと上げて、目の前でベッドの上に置き上がっているその人物を見つめた。
そして、その人物もまた、こちらを虚ろとしているが、ハッキリとこちらを見ていた。
あの時の、試合の時とはまた違う人物に見えるくらい、彼の表情は優しそうな、そんな雰囲気をしていた。

『あ、あの…私…』
「…キミが、僕の…妹だったんだね」
『え…?』
「顔も知らなかった、確証も無かった、半信半疑だった…でも、その顔も知らない妹という存在を、僕は放っては置けなかった…
だって、僕には…家族がお婆ちゃんしか居なかったから…でも、そのお婆ちゃんも、もう年だ。僕の面倒が見られないくらいに、横になったまま…」

視線を逸らし、裕弥は外を眺める。
喋り方も、その動作すらも、彼らしさなのだろう。落ち着いた雰囲気。本当に試合の時のような雰囲気は感じられず、彼の口から出てくる話しは驚く程淡々としており、だけど、表情は確かに悲しそうにしていた。

物心がつく前に両親から引き離され、子育てが難しそうなお婆ちゃんの所に預かられ、そのお婆ちゃんも今では支えられそうにない。身寄りも、居なかっただろう。そんな彼が唯一希望を持てたのが、谷宮悠那という名前だけの妹の存在――…
彼は、それだけが全てだったのだろう…

「妹という存在を確かめる為に、見つける為に、僕は自分の手を汚してまで…会おうとしていた。見つけようとしていた。どこで狂ってしまったんだろう…僕は気付いたら、自分の気持ちすら分からなくなるくらい、自分を見失って、手に入れたのが…こんな結果だ。
こんな体に生まれなきゃ、両親もきっと悲しまなかった。妹にもちゃんと胸を張って僕がお兄さんだよって伝えてあげられた。逸仁ともきっと楽しくサッカーが出来ていた。こんなサッカーは間違ってるって、二人で作戦とか考えられるんだろうな。お婆ちゃんにも、お婆ちゃんらしくしてもらえただろうな。
…最低だ、僕」

そう言って、顔を俯かせる裕弥。きっと、彼は誰も責めていない。全て自分の責任だと思ってしまっている。
病弱に自分が生まれた事も、妹に顔を見せられなかった事も、逸仁にまで汚い真似をさせてしまった事も、一人で先走っちゃった事も、お婆ちゃんに無理をさせた事も――…
自分が全て悪いんだと思い込んでしまっている。
今、改めて目の前にいる裕弥という存在の意味が分かった気がした。

だからこそ、こんな現実が辛くて、悲しくて、気付いたら自分の視界は滲んできて、とてつもなく胸も苦しい。
何で、辛い目に遭うのが自分ではなくて、周りにいる人達なんだろう。剣城も、神童達も、逸仁や環…そして、目の前にいる裕弥も――…
どうして、自分は気付いてあげられなかったんだろう。信じてあげられなかったんだろう。
どうして、自分じゃないんだろう…

「あ……大丈夫。キミが泣く必要なんて無いんだよ。こんな結果になってしまったけど、遠回りしてしまったけど…僕はキミに会えた。それだけでもう、僕は苦しくないんだよ」
『ゆ、や…さん…っ!ごめ、ごめんな、さい…、わ、たし…何も知らなかったとは言え…今まで、のうのうと過ごしてた…!こんな私、いも、との資格ないのに…っ、』
「……」

ついには嗚咽までが襲ってきて、思っていること、伝えたい事が上手く伝えられない。それ程まで自分は裕弥に対して罪悪感が強かった。
何も知らない自分が恥ずかしい。周りが、裕弥がそれを気にしなくても言われても自分が気にしてしまうのだ。気にしなくていいなんてある筈がないんだ。
溢れてくる、拭っても拭っても出てくるその涙をゴシゴシと裾で止むまで擦っていた。
そんな彼女を黙って見つめる裕弥は、小さく微笑むと次には彼女に向けて両腕を広げた。

「でも、君は僕の目の前に現れてくれたね、僕を止めようと、してくれた。僕の為に、戦ってくれたね…」
『…ッ、』
「それだけでも、僕は嬉しいんだ。僕だけじゃない、この顔も知らない悠那ちゃんは、僕と同じように、お互いの存在を確かめようとしているんだって、それだけで嬉しかったよ」
『裕弥さ…』

「おいで。僕のたった一人の妹…悠那!」

今度こそ、届いたよ。

ずっと、目の前に道が見えた。
それは人が作った、決められた道。自分はずっとその道を歩いてきた。
歩く事によって、沢山の壁が見えたり、他の道だって現れたりした。だけど、自分はその道をずっと進んできた。今歩いているこの道はきっとどこかに自分の求めている道と繋がっている。
そう信じて進んできた。無我夢中になって歩いてきた。
そして、それは漸く見えてきた。
やっと、やっと、自分は一息つける場所を見つけた。
やっと、手に入れる事が出来たんだ――…

『お帰り、お兄ちゃん…っ』
「ただいま、悠那」

今度はちゃんと、離さないように。
漸く会えた、妹と兄の再会。出会いは最悪で、絶望的だったけれど、それでも今はこうして会える事が出来た。
お互いの存在を確かめるように、悠那と裕弥は抱き締め合って安堵したその瞬間、お互いに涙を浮かべたのだった。


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