- ナノ -


*肆*







まだ日も顔を出さない時分に起床して、数刻。
いつもと同じように炊事洗濯を済ませて、
私は八木邸の廊下の雑巾に精を出していた。
そして今回は、一人ではなく二人で。

「うりゃぁあぁぁあぁっ!!」
『ちょ、勇坊っ…あんま調子に乗るなって!!』
「響、競争だぁっ!」
『しないっつーの!!』

もう一人とは、八木邸の子息勇之助である。
何故お世話になっている郷士のご子息様に
雑巾掛けなんて怖ろしい所業をさせているかというと、
これは全く私に非はなく本人が言い出したからである。
桶に水を汲んで来た辺りからぴょこぴょこ寄って来て、
遊びじゃないというのに「俺もやるー!」の一点張り。
本人が言っているのだからいいか、と最終的に折れてしまった。

しかし、あの速度はどうだ。
何度も何度もこけかけて、まともに拭けてない。
その上ちゃんと搾れてない。
水がぼたぼたと滴っているせいで床はびしょ濡れだ。
これじゃ、掃除してんのか汚してんのか分からん。
御蔭で私は勇坊の跡を二度拭きする羽目になってしまった。
途中から乾拭きに切り替えたので多少無駄は軽減されたが。

「なあなあ響っ、俺役に立ってる?!」
『うん、助かってるよ。ありがとう』
「へへへっ!」

まぁ、人手が足りなかったのも事実だ。
平助なんか即効で逃げたからな。
最近は勘が鋭くなってきたのか、すぐ察知される。
手伝わせようと思ったのに、全く捕まえられないのだ。
そして私は、一人広範囲の邸を掃除することになる、と。
そう考えたら遊び心でも勇坊が手伝ってくれるのは助かる。

素直に感謝の気持ちを表して、頭を撫でてやる。
勇坊はくすぐったそうにしながらも満面の笑みを見せた。
いつもは生意気なのに、たまにこういう顔をするから
憎たらしいだけじゃなくて可愛いと思ってしまう。
今日は桜餅でもこさえて食べらせてやるかな。

「よしっ、もう一回行くよーっ!」
『ああ、もういいよ勇坊、怪我する…』
「平気平気っ!びゅーんっ!!」

制止の声も聞かず、勇坊は長い廊下を滑る。
万が一にも縁側に落っこちてもらっては困る。
もうそろそろ終わりにしようと思っていたというのに、
勇坊は再び塗れた雑巾を手にして、たたたと走った。
その前方に影が現れたのに気付いて、止めようとしたが遅し。

「うわっ!!」

廊下を曲がって現れた人物に頭から激突。
勢い余って、勇坊は後ろにこてんっと倒れてしまった。
私は後頭部を打ち付けるのは阻止しようと、
四つん這いで素早く廊下を這うと、勇坊の後ろに回った。
体勢を転じさせて滑り込ませた膝の上に、頭が落ちてくる。
何とか後頭部と床の口付けを防ぎ、ほっと安堵の息を吐いた。

『…あっぶな〜…焦ったぁ…!』
「お〜…響、すげェ!」
『すげェじゃないでしょうが!何やってんの!』
「…それは、私の台詞でもあるんですが月島君?」
『……っひ!』

思わず息を呑み、勇坊の頭を抱いたまま後退った。
凄まじい殺気が体を覆った気が…した。
ぞわっと背筋に悪寒が走り、鳥肌が立つ。
見たくないが見ないわけにはいかず、そうっと上を見る。
そこには黒い笑顔を閃かせた狸…もとい、山南さんがいた。
下から見ると眼鏡が反射していて更に恐かった。

「…何をやっているですか君は…
八木さんのご子息に雑用をやらせるなど…」
『ちょ、待って下さい山南さん!これは私が言ったんじゃ…!』
「問答無用です!もし怪我でもさせてしまったらどうなるか、
分からない筈はないでしょう!何かあってからでは遅いんです」
『…す、すいません…』

ご尤もなご意見である。
ご好意で邸を借り受けているというのに、
もし八木様を怒らせてしまったら浪士組は居場所がなくなる。
資金云々言っている今、寝床を失ってしまったら
本当に江戸に帰るしか方法がなくなってしまうのだ。
叱責を受けて、響はしゅんっと縮こまった。

「おい山南っ!響をいじめんなよっ!」
『ゆ、勇坊なんて口の利き方!』
「最近総司は遊んでくれないし、元気ないし、
響だって本当は落ち込んでんのに、俺の相手してくれる!
だから俺、何か役に立ってやろうって思ったんだ!邪魔すんな!!」
『……勇坊、』

まさかそんな風に考えてくれているとは…
ただ単に遊びたいだけで申し出たと思っていた。
この子はこの子で、周りや傍を大人で囲まれて、
人の心の機微を敏感に察するようになったのかもしれない。
沖田は相手はしてやってないけど、いつも通り。
私も消沈しているなんて、傍目には分からなくしているつもり。
見抜かれてしまっているなんて思いも寄らなかった。

吃驚して膝に座る勇坊の顔を見つめていると、
山南さんはふっと表情を和らげて勇坊の頭を撫でた。
その仕草が思いのほか優しくて、勇坊は言葉に詰まる。
まあ、初めから山南さんの諫言の方が正論なんだが。

「…それは、申し訳ありませんでしたね。
しかし君に何かあって叱られるのは、彼の方です。
ここは一つ、理解して自重しては下さいませんか?」
「…響」
『ありがと、勇坊。気持ちは充分伝わったよ』

何とも情けない限りではあるが、その気持ちは嬉しい。
窺うようにこちらを見上げてきた勇坊の頭を、
山南さんと同じように私も優しく撫で付けてやる。
元々この子はそんな雑用に慣れていないのだ。
こういうことはうん、平助とかにやらせとけばいい。
その間永倉さん達に遊んで貰えば、万事解決ではないか。

当事者達に与り知らぬころでくっくっくと計画を立てる。
二人は町の何処かで身震いをしたとか、しなかったとか。
楽しそうにくつくつと笑みを洩らした私に
そういえば、と山南さんが爆弾を投下したのは三秒後だった。
彼は素知らぬ顔で、これまた当事者が与り知らぬことをのたまう。

「明日の早朝、芹沢さん達が大阪に資金繰りに行くのですが…
月島君、君も荷物持ちとして同行することになっていましたよ」
『…はっ?!き、聞いてないんですが?!』
「誰も言っていないのだから当然でしょう。
荷物を纏めるようにと芹沢さんが言ってらしたのを聞きましたので」
『お、大阪?!資金繰り?!荷物?!』
「え〜…響、何処か行っちゃうのか?」
『いや、私だって行きたくな…』

い…と山南さんの前では流石に明言出来なかった。
途中ではっとして口を噤む。
彼に言っても意味ない上に、つべこべ言うなと睨まれそう。
ははは…と乾いた笑いを零せば、多少の憐れみを込めた視線をくれた。
うわ、全然嬉しくない。

しがない居候には家主に逆らう術はない。
芹沢さんは家主もとい飼い主だと言い張りそうだけど。
どっちみち私が同行するのは確定事項なのだろう。
せめて同行者が気兼ねしなくていい相手であることを願うばかりだ。
騒ぎを起こさないで欲しいと切に思っても、
その期待を絶対的に芹沢さんは破ってしまうだろうから、
永倉さんとか…ねェ。対処を押し付けやすい人が良いかな。

そんなことを考えながら、嘆息吐きつつ、
芹沢さんの荷物を纏める為平間さんの元へ向かう。
気落ちした気分は未だ浮上せず、
出来れば心安らかな日々を過ごしたいと、思わずにはいられなかった。