- ナノ -


*参*






視界を覆った精彩たる紅に言葉もなく立ち尽くした。
何が起こっているのか分からない。
まるで夢の中に入り込んでしまったよう。
全てが朧気になって、目の前の出来事が認識できない。
いっそ、本当に夢ならどれ程良かったことか。


「…ああ君か…何しに来たの?」
『…何、って…』


しかし、これは紛れもない現実だった。
沖田の声が私を現に引き戻す。
そして明瞭になった意識は、紅が何かもはっきりさせた。

禍々しい色彩をたたえながら広がっていく円。
鼻を突く匂い。
忘れたい、思い出したくもない過去を彷彿をさせる。
何より、沖田の足元に倒れているその存在が、
昔と重なってより深く夢幻でないことを誇張している。

情けないことに、私は動けなかった。
口内がカラカラに乾いて、動悸がする。
怖気と鳥肌が立って、全身の血がすっと冷えていった。
沖田が、返り血を浴びた彼が、幽鬼に見える。
その冷え切った双眸にはもう何も映ってはいなかった。

沖田の様子は、それでも淡々としている。
人を斬った後とは思えないくらいに落ち着いていて、
動揺も怯えも混乱も何も見えない冷静な立ち振る舞い。
刀に付着している鮮血を緩慢な仕草で拭っている。
私はその足元の男の様子を慎重に探った。


『(…っ、動いた!)』


殿内という男。
沖田と連れ立って行ったときから、
何となく悪い予感はしていたからそこには驚かない。
だがもうとっくに息絶えていたとばかり思っていたから、
殿内が微かにでも呻き声を上げたことは僥倖に思えた。


「…何だ、まだ息があるんだ」
「っぐ、…うっ…」
『沖田っ!!』


斬った後は興味を削がれたようにしていたが、
息があると気付くや否や沖田は再び刀を抜いた。
鞘走りの音が響く。
その瞬間、私の意識は完全に覚醒した。
咄嗟に叫んで素早く二人の間に身を躍らせると、
空虚しか宿していない沖田の瞳に私が映った。

この状況になれば誰でも分かると思うが…
沖田は、殿内に止めをさそうとしている。
まだ完全に事切れてはいなかったこの男の生命を、
今度こそ終らせてやるつもりで刀に手を掛けたのだ。


「…何、してるの」
『あんた…この人のこと、殺すつもり?』
「そうだよ。今更聞かなくても…分かると思うけど」
『…』


沖田を見つめ、殿内に視線を走らせる。
最後に躊躇いがちに己の手のひらを見つめて、
私は静かに腰にある刀へと手を伸ばし、柄を握った。
沖田の双眸が僅かに見開かれる。


「…僕と闘うつもり?君が?」
『…』
「勝てるって、思ってるわけ?…女の子なのに?」
『……気付いてたんだ』


当たり前でしょ、と沖田は返した。
何人かが私の性別に気付きながらも、
それを黙認してくれていることはちゃんと分かっている。
沖田の奇天烈な絡みも全て分かっていてのことだったのだろう。
彼は今、私の虚偽をいとも簡単に露呈させ、冷瞥している。

その目を、真っ向から見返した。
一瞬たりとも逸らしてなるものかと言うように。


「…どうして庇うわけ?君には、何の関係もないじゃない」
『…』
「浪士組の一員じゃない、かといって部外者でもない。
関わりたくないと思ってるくせに、妙なお節介を焼いてくる。
君が何を思ってるか知らないけど、はっきり言って、邪魔だよ」


分かってる。
私がしていることは自己満足に過ぎない。
自分が見過ごせないから、手を出して欲しくないから、
勝手にしゃしゃり出て勝手に充足感を得ているだけなんだ。
当人からしてみれば、迷惑極まりない行為。
中途半端な立ち位置にいる私が、踏み込んで良い土俵じゃない。
全部分かってる。…だけど。

嫌だ。
目の前で誰かの命が消えるのは。
嫌だ。
誰かがその手を血に染めてしまうのは。
嫌だ。
沖田が虚無の眼をして、血塗れた刀を握るのは。
私はその全てが、嫌で、嫌で嫌で仕方がない。

ぎゅっと目を瞑れば、瞼の裏に今も鮮明に蘇る光景がある。
もう一度その光景を見れば、私はきっと正気じゃいられない。
繰り返せば、狂気の渦に落ちてしまうと分かっている。
迷って、弱いままじゃ、躊躇ってしまえば、また輪廻する。
ここで庇っても、殿内は助かりっこない。
早く終わらせてしまう方が慈悲なのだとさえ思う。

―――でも、


『―――たとえ関係がなかったとしても、
目の前で人が殺されるのを、黙って見ているわけにはいかない!』


殺されそうなのが見知った相手なら。
手を汚そうとしているのが知り合いなら尚更。
沖田に、同じ轍を踏ませたくないと強く思う。
濁った瞳をする眼前の男を止める手立てになるというのなら、
…二度と抜かないと誓った刀を、抜いても構わないと思う程。
私の燻っていた心は、いつの間にか、感化されていた。

叫ぶと同時に柄を握った右手に力を込める。
しゃりん、と鞘走りの音がして、刀身がその身を現す。
銀のそれは長い間眠っていたとは思えないくらい美しく、
薄く光を反射して、血を吸いたいと猛っているように感じられる。
完全に刀が抜かれた刹那、辺りをきん、と張り詰めた空気が覆う。


「―――!」


沖田は思わず、息を飲んだ。
血を浴びて猛っていた神経が急激に冷めていく。
目を瞠り、一歩後退りすることを余儀なくするような、
冷ややかな刃を首筋に宛がわれたような感覚―――。
それが、目の前の小柄な少女から発せられているというのだろうか。

放たれた刀身と同時に何かが落ちたみたいに、
響の持っている雰囲気と気配が洗練されたものになる。
野生の獣を前にするような圧倒的な危機感。
びりびりと肌を刺すこれは…何だ?
恐れよりも恍惚に似た驚きを抱いて、沖田は響を見る。

感情の一切が削げ落ちた能面の如き表情。
翳りのある瞳、光彩が見えない。
引き結ばれた唇からは呼気の音も聞こえない。
存在が疎になる程に、気配がないのに存在感だけが溢れている。
これが、先日までふざけあって笑っていた子?
信じられなかった。けれど、何処かでああそうか、と納得する。

沖田が感じていた違和感、興味、憧憬。
その全ては今、目の前の彼女に集約されている。
誰も知らない、けれどこれが本当の【響】
殺気と闘気のみを醸し出すこれが、本当の彼女。
刀を抜いた瞬間に、本性が、顔を出した―――。

―――勝負は、一瞬だった。

沖田と響の刀が暗闇で走り、
キインと金属音が響いて光が生まれたの後、
沖田の咽喉元にはぴたりと銀の刃が添えられていた。
呆気なさ過ぎて、何があったかも朧気な刹那だった。
取り落とした刀の音が周囲に響く。

勝てない。
今の自分では、殺されるだけ。
分かっていたから、組み伏せられることに驚きはない。
寧ろ沖田の気を惹いたのは、一層近付いた響の眼。
…何も、映っていない。
沖田も、景色も、感情も、何もかも。
奥まで見通せそうなくらいに、意思を感じさせなかった。
この目から、この刃から、逃れられない。
殺されることすら一瞬で、捌きようがなく。
初めて会ったときの問いの答えが、ようやくはっきり見えた。

―――君は、あるの?
人を、殺したことが。
―――あるのだと、彼女の瞳が教えてくれた気がした。