- ナノ -



辺りを静寂が支配していた。
少しでも動けば添えられた刃が咽喉を裂く。
今も皮膚に触れる刀の冷たさを感じている。
きっと彼女は、表情一つ変えずにそれを為すだろう。
沖田は自分が死ぬことにはさして恐怖は覚えなかった。

ただ、今はずっと。
息が触れ合う程近くにある響の顔を、
その昏い瞳を見つめていたい、とそう思っていた。
時間が、永久に続くのだと錯覚するくらい緩慢だった。


「お〜い、響!総司は見付かったか?」


静寂を破ったのは、響を探す新八の声だった。
その声が響くと、今の今まで感情を喪っていた瞳が、
空気を吸い込むように色を取り戻していくのが分かった。
はっとして思考を繋げると、現状に気付く。
自分が沖田に押し倒すようにして刃を当てていることを認識すると、
弾かれたように身を引いて何の躊躇もなく刀を鞘に納める。
同時に濃縮されていた殺気も引いていく。
カラクリのようだった彼女の表情には、意思が戻っていた。

複数の足音が聞こえる、恐らくは永倉達だろう。
響は沖田へは一瞥も向けずに殿内に近付き、
手を伸ばしてその首筋に触れると、脈の確認をした。
もう、息はない。
この傷では手の施しようがなかった。
分かっていたことだが、実際目の当たりにすると堪える。
ぐっと唇と噛み締めた響を、沖田は何処か虚ろに見つめた。


「っ…何だこれ…どうなってんだ!」
「総司!お前…!」


路地に現れた三人は一目見て、状況を理解したらしい。
立ち尽くす沖田が身に被っている鮮血。
円状に広がる血溜まり、鼻に突く血臭。
そして傍らに横たわっている、見覚えのある躯。
驚愕して、次に何故こんなことを、という懐疑を滲ませた。


「響!お前、怪我してんのか?!」
『…ああ…違う、これは…』


平助は慌てたように響に走り寄ると、
有無を言わせず手を取って、傷がないかを確認した。
暗闇で分からなかったが、手がべったりと濡れている。
よくよく見ればそれは赤黒い液体だった。
響が怪我をしていると勘違いしている平助は、
「すぐに手当てしねェと…」と心配そうな瞳をしていた。

…これは、私の血じゃない。
多分、沖田を引き倒して胸倉を掴み上げたときに…
そう言えばいいだけなのに、酷く億劫だった。
口から出る言葉と声が自分のものに思えない。
良く分からない倦怠感が体を覆っていた。

平助の手が離れていくのが、惜しかった。
今しがた温もりのない体に触れたせいか、
生きている人の体温を感じるのが気持ちを落ち着かせてくれる。
しかしそう言うことも出来ず、離れるに任せる。
覆ってくれていた温かさの失せた右手を、じっと眺めた。

―――どくん。

身の内に流れる血液が、躍動した気がした。
懐かしい感覚。覚えがある血濡れの感触。
全てが懐古を引き起こして、夢のような心地にさせる。
自分が眠っているのか、起きているのかすら分からない。
ただ血液がどくん、どくんと廻っていくのが如実に感じられる。

刀を抜いた瞬間の、獣を解き放ってしまったような、
自我が喪われていく感覚と、どうしようもない恍惚感…。
あのとき確かに、自分の意識は何かに呑まれていた。
沖田が目の前にいたことすら、忘れていた。
ただ覚えのある感情に身を任せていたら、いつの間にか…
沖田の碧色の瞳が不思議そうに自分の瞳を覗き込んでいた。


「おい、行くぞ」
「とりあえず邸に戻らねェと…」
『…はい』


もしかしたら、自分は…
永倉さん達が来なかったら、沖田を…
沖田の首筋をこの剣で掻っ切っていたかもしれない。
そう考えると、急激に怖ろしくなって身が震えた。


「総司、お前本当に何処も怪我してねェのか?!」
「ああもう煩いなぁ…これは僕の血じゃないってば」


先行く沖田の声が聴こえる。
あの声がもう、聴こえなくなっていたかもしれない。
それを為していたのが自分かもしれない。
考えれば考える程に、恐ろしさだけが募っていく。
何か言いたげな視線を感じたけれど、沖田の方が見れなかった。


******


―――沖田が殿内義雄を斬った―――。
その報告を聞かされたときの近藤さんは、
深い悲壮と悲嘆に満ちた顔をしていた。

不逞浪士との斬り合いならまだしも、
身内といえる浪士組の人間を負傷させただけでなく、
相手を殺害するに至ってしまっているのだ。
それは彼等が先日定めたばかりの局中法度、
【私の闘争を許さず】という禁を破ったことになってしまう。
土方さんと近藤さんは、詰問口調で沖田に詰め寄った。


「総司、一体どうしてこんなことをしたんだ?」
「局中法度にゃ【私闘は厳禁】って項があったよな?
何をとち狂ってこんな真似をしやがった?
隊士を切り殺すなんざ、許されると思ってやがるのか?」
「…私闘じゃありませんよ。局中法度に従ったまでです」


別人のような厳しい表情をした近藤さん。
人を射殺せそうな程に鋭利な目をした土方さん。
二人の前にあっても沖田は飄々とした態度を変えなかった。
血に濡れた着物を纏ったまま、言葉を紡いでいる。
そこに緊迫や反省といった様相は全く見られなかった。


「局中法度だと?」
「芹沢さんが言っていたんですよ。
殿内っていう人が近藤さんの命を狙ってるってこと。
局長を殺そうなんて、士道不覚悟ってやつですよ。
…だから、殺しただけのことじゃないですか」


それの何処が悪いのかと言いたげだった。
土方さんは血相を変えると、確認を求めるように
一瞬だけ私の方へと視線を向けたので、頷いて返す。
その後の行動はどうあれ、沖田がが言ったのは事実だった。

舌打ちせんばかりの表情をしながら、
土方さんは近藤さんと連れ立って芹沢さんに抗議に向かった。
勝手な真似をして隊を引っ掻き回した。
彼が沖田に伝えなかったらこんなことにはならなかったから、
確かにその言葉は正論で的を射たものなのだろう。
でも、言わなかったら、言わなかったでどうなっていただろう。
…近藤さんが殺されていた可能性はなかったのか?
それを考えると、何だか一概には言えない気がした。


「さーて、そろそろ僕は休ませて貰おうかな。
着物が血塗れになっちゃった…明日、洗濯しないと」
『…何?』
「血、落とす方法知ってるんでしょ?教えてよ」
『…分かった。出しといてくれればいい』


何が楽しいのか上機嫌の沖田の視線を受けて返すと、
虚脱感が全身を満たして、私は終始素っ気無く返答した。
いつもなら普通に交わしていた日常会話すら煩わしい。
今は、沖田と視線すら交わしたくなかった。
殿内の血に塗れた着物を洗濯するのも、気が進まない。

沖田はまた、物言いたげな視線を投げて寄越してきた。
しかし私はその視線に応える気にはなれずに、
ずっと俯いて板張りの床を意味もなく凝視していた。
諦めたように沖田が視線を剥がして退出しても、ずっと。
その場に座り込んだまま、何も言うことが出来なかった。