- ナノ -


*弐*






「犬、とっとと次を注げ」
『はいはい、分かりましたよ』
「言われずともそうしろ。貴様は本当に使えんな」
『…はいはい』


げんなりしながら芹沢さんの杯に酒を注ぐ。
芹沢さんはいつになく上機嫌で、
それでも口から出てくる謗りは健在だった。
私は何故酌をさせられているのか疑問でならない。
いつもなら勝手に花街にでも出向いているというのに、
時たま彼はこうやって、私に酒を注ぐことを命じるのだ。

確かに私は女だけど今は男の恰好してるし、
そんな人間に酒を注がれて楽しいものなのか。
相変わらず芹沢さんの考えることは分からない。
はぁっと疲労の濃い溜め息を吐きながら徳利を傾ける。

酒を煽る芹沢さんを横目に、私はふと
先日の八木邸での夕餉のことを思い出していた。
…沖田とはあれから、一言も交わしていない。
土方さんと対面するのが嫌なのだろうか、
食事のときも早く切り上げてさっさと部屋に戻ってしまう。
元から少食だったのに、もっと食べなくなってしまった。
近藤さんが説得を続けているらしいが…
もうすぐ四月になろうというこの時分になっても、
一向に事態が好転することはないように思えた。

どうして私は寂しいなんて思うんだろ。
あいつに絡まれることに迷惑していた筈なのに、
やっぱりあの憎まれ口がなければ物悲しく感じてしまう。
…あのときの淋しそうな沖田の横顔が忘れられない。
そのせいか、四六時中様子が気になって仕方がないのだ。
早く、仲直りしてくれるといいんだけど。


「月島君、何をぼーっとしているんですか。
男の君に酌されても楽しくありませんが、仕方ありません。
さっさと私の杯にも酒を注いで下さい」
『嫌です。自分でやったらどうですか。
何度も言いますが、私も平間さんも貴方の小間遣いじゃありません。
いい加減洗濯物も自分できちんと片付けて貰えますか』
「なっ!聞きましたか、芹沢先生!!彼が私に暴言を…!」


平間さんは芹沢さんのお付。
私も不本意だが芹沢さんの小姓。
じゃあ、新見さんはといえば、芹沢さんの腰巾着。
それなのに私達が世話をしてやる筋合いがあるのか。
いや、ないに決まっている。

未だ私を男だと思っているらしい彼は、
私に向かって杯を突き出してきたがつっけんどんに返すと
激昂して芹沢さんに不平を撒き散らした。
だが、芹沢さんは鬱陶しいと眉を顰めるばかり。
私はべえっと内心舌を出した。
虎の威を借りて威張っているからそんなことになんのよ。


「…芹沢殿。折り入って話したいことがあるのですが、入って構いませんかな」
「何だ。入れ」


呵呵大笑しつつ新見さんを見ていると、
襖の向こうから聞き覚えのある声が聞こえてくる。
ん?この声誰の声だっけ?
最近聞いたことがあるような声色だ。
記憶を探っている間に芹沢さんが入室を促して、
その声の持ち主が部屋の中に入ってきた。
私は、げっと眉を顰める。それは向こうも同じだった。

そこにいたのは、先日私に絡んできた一人の隊士。
あの不遜極まりない諫言を強いてきた、殿内義雄。
捨て台詞が捨て台詞だっただけに、対面するのが嫌だ。
彼の方も私の姿を見留めて一瞬不快そうに眉を顰めたが、
すぐに芹沢さんに向き直って居住まいを正した。
…ここに何しにきたの、この人?


「話と言うのは何だ?手短に済ませろ」
「ご心配なさらず。すぐに済みます」


芹沢さんのぶっきらぼうな物言いに、
鋭い目付きを返しながら殿内は前置きをする。
そして、芹沢さんの顔色を窺いながら続けた。


「率直に伺いたいのですが…
芹沢殿は近藤めのことをどう思ってらっしゃるのですかな」
「どう、とは?」
「いえ、先日定められた局中法度…
そして今の浪士組の体制に関してなのですが、
あれは近藤の子飼いの連中が勝手に取り決めたものでしょう」
「ふん」
「拙者は浪士組を率いていくのは、
芹沢殿以外にいないとかねがね思っているのですが…」


彼の口から近藤さんの名前が出た瞬間、
不覚にも私の心臓がどくりと脈打った気がした。
先日のこの男の態度から察するに、
近藤さんや土方さん達のことを良く思っていないのだろう。
探るような口ぶりが勘に障ると同時に嫌な予感がする。
じっと話の続きに耳を傍立てた。


「芹沢殿程の御方が、何故あんなどん百姓共に
好き勝手な真似をさせておくのですかな?
特にあの近藤めは…何の実績もないくせに、
局長の地位を望むなど、増長し過ぎとは思いませんか」
「…確かに、このまま捨て置くことは出来んか」


芹沢さんに取り入ろうとしているのか、
殿内は彼を持ち上げつつ、近藤さんを貶している。
嫌な予感がどんどん胸の内に広がってくる。
横目で芹沢さんの顔色を窺うと、
彼は涼しい顔をしていたけれど、ついで口元を歪める。

出てきたのは、肯定の言葉?
近藤さんの存在を良しとしない、と
そう言い切ったものかは判断がつかない。
けれど殿内は肯定の意と取ったようで、
にやりと薄気味悪い笑みを口の端に閃かせた。


「もし実行の際は、是非私めにやらせて下さい。
それでは、今日のところはこれで失礼致します」


殿内はそう言い残し、深く頭を下げて部屋を辞した。
そのとき一瞬だけ彼と視線がかち合う。
狡猾で、探りと疑心を綯い交ぜにした目つき。
私を値踏みしているのか、すっと眦を揺らして
殿内は襖の向こうにその姿を消した。
ぞくりと肌が粟立ったのはきっと気のせいじゃない。

『実行の際は是非私めにやらせて下さい』
その言葉の意味を深く勘繰っても良いのなら、
多分私が想像しているもので合っているのだと思う。
言葉に込められていたものは明確な悪意と…殺意。

―――近藤さんを始末する相談って訳?

酷い不快感を覚えて、二人の顔を見る。
新見さんの意味深な笑み。
芹沢さんの涼しい表情。
どちらも今は、更に嫌悪を煽った。

私には、どうすればいいか分からなかった。