- ナノ -


*弐*



意識が薄れ、遠のいていく。
長旅で蓄積された疲労は、思った以上に身体を蝕んでいたらしい。
いつしか、深い眠りへと誘われる。

陥った微睡みの中で…
私は、夢を見る。

「…響、響」
「響、何処にいるのですか?返事をしなさい」

ああ、またか。
あの人はまた、夢に出て来て…
生前と同じことを、繰り返し私に聞かせるのか。

『母上』
「良い子ね、響…さあ、お勉強の時間よ」
『母上…』

近所の子と遊んでいた私の手を、母は引いて歩く。
後ろを振り返れば、叱責が飛ぶ。
母はいつも、あんな身分の低い子と一緒にいるなと言い聞かせてきた。

気付けば、私と遊んでくれる子は、一人もいなくなっていた。

「ああ、弓術の練習をしていたの?」
『はい、母上』
「貴方が立派な武家の子に育ってくれて、私は嬉しいわ」
『…』
「亡くなったお父様も、きっと喜んでいるわよ」

そう言う母は、本当に誇らしげで。
嬉しそうな母を見て、私も嬉しくなって…
でも何故かちくりと痛む胸と、違和感を感じて。
幼い頃はそれを、必死に押し隠していた。

「響!何をしているのですか!」
『何って、夕餉の支度を…』
「何を馬鹿なことを!貴方は武家の子なのですよ!」

違和感が明確なものとなったのは、物心ついてからだ。
使用人もいない今の家計。
貧乏で困窮している状況なら、家事くらい当たり前だ。

それなのに母は、私は叱る。
買い物をすれば叱り、出稼ぎをすれば嘆き、炊事をすれば怒った。
狂ったように暴れる母を抑え、私は言う。

『御免なさい、母上様…もうしません、しませんから落ち着いて!』
「貴方はいずれ、名のある家に嫁ぐのよ!?分かっているの?!」
『はい、分かってます!』
「こんな…こんな下女みたいな真似をして…!」

必死で母を宥め、取り繕って。
気付かれないよう、母が部屋に篭る時に炊事を済ませる。
母が寝静まる頃に、静かに掃除を行う。
全て使用人がやったことだと、言い含めて。

弓術の練習と偽り家を出て、銭湯の仕事を手伝う。
お金なんて、何処からも出ない。
底を尽きれば、飢えて死んでいくだけだ。

家事と仕事を並立しながら、たまに行う的射ち。
堪った鬱憤を発散させる為に、弓を引いた。
それだけが、私の自由の時間だった。

「貴方ももう十七…貴方程の子に、どうして縁談が来ないの…!」
『母上…』
「ああ、お父様が知ったら何て仰るか…」

縁談なんて来るはずもない。
誰も、御家人株を売り払った家の娘なんて、嫁にしない。
母が言う、名のある家の子息なら尚更だ。

『母上…もう、止めて下さい!!』
「…響?」
『もううちは武家じゃない…貴方は、武士の妻じゃないんですよ?!』

見ていられなかった。
武士だ武家だと言うだけで、家に閉じこもりきりの母。
そんな母を養う為、こそこそとお金を稼ぐ続ける生活。

何年も何年も、同じ言葉の繰り返し。
いつまで経っても、現実を見ようとしてくれない。
私にも、限界が近付いていた。

『今までどうして食べ物に困らなかったか、分かっています?!
私が貴方の言うみっともない仕事をして、扶持を稼いでいたからです!
家事をしたのも、私です!みんな私!使用人じゃない!』
「…何、ですって…?」

そんなの、雇えるお金なんてあるわけがない。
出来るわけない。
見栄に拘る母は、私がしてきたことも…
子供が行っていること一つ、見えていなかったのか。

私は、いつも良い子だった。
母の期待に応えようと、いつもいつも…
神経を擦り減らして、母が笑ってくれるように努めていた。

近所の人が笑う。
武家でなくなっても、その名誉に縋りついている母を。
そんな母を庇い、必死に全てを隠している私を。
滑稽な私達親子を笑って、嘲る。

『武士が何よ!侍が何よ!そんなものが、私達に何してくれたの!!』

見栄や誇りや、体面や。
母が誇るものが、一度でも私達を助けてくれた?
一度でも何かを齎してくれたのか?
それで腹が膨れるのか?

私は、武家の娘じゃない。
何処かに嫁ぐのもまっぴらだ。
武士なんて、身分を笠に着た上辺だけの人間なんだ。


そんなものに振り回されるのは、もう…
もう、たくさんだ。


『…武士なんて…』


母の幻影を振り払うように、声を洩らす。
耳を塞ぎ、聴覚を遮断して、音を遮る。



『―――武士なんて、大嫌いよ!!』