- ナノ -

穢れなきは


*壱*





『ふぁ…ふ』


噛み殺し切れなかった欠伸が零れる。
私は目端に涙を滲ませながら、瞼を必死に押し上げた。
ね、眠い…何故私はここにいるんだ。
一昨日から寝てないから今日は早めに寝ようと思ってたのに。


―――三月十日。
その日、浪士組の面々は八木さんに紋付袴を借りて
会津藩のお偉いさんの元へと赴いていった。
京都残留の許可を得るという目的を果たす為に。

それが叶えば、これからも京都に居続けることが出来る。
力強い後ろ盾も得ることが出来る。
しかし断られてしまえば…近藤さん達は京にはいられなくなるだろう。

正に一世一代の大勝負。
先行きが全て決まる運命の出来事であった。

そのせいか、いつもは能天気な人達ですら表情が晴れない。
死刑を待つ罪人みたいに辛気臭い顔をしていた。
…駄目って決まってるわけじゃないのに、肝っ玉の小さいこと。
所詮他人事なので、私はいつもと変わらずせっせと雑務に勤しんでいた。


そして、三月十二日の今日。

近藤さんに呼ばれて、私も八木邸の広間にいた。
ぶっちゃけ全然関係ないし興味もないんだけれど…
ていうか、寝てないって言ってんじゃんと抗議しても聞いて貰えなかった。
何て理不尽。

そんなわけで、私はすこぶる眠かった。
うっつらうっつら船を漕ぎつつ、でも意識は完全に落とさない。
本当に寝ちゃったら後が怖いからだ。
しかし、私の気持ちの降下具合に反し、意気揚々と近藤さんが声を張り上げる。


「皆、聞いてくれ!会津公が我々の趣意を聞き入れて下さり、
正式に我々をお預かり下さることになったぞ!」


近藤さんがそう告げると、広間はわっと湧き立った。
特に永倉さんや平助の喜びようは凄い。
「ろくに寝られなかった」「良かったな、近藤さん」と
口々に安堵の声や近藤さんへの賞賛を洩らしている。

私は自分には全然関係ないと心中では零していたけれど、
彼等が手放しに喜んでいる様を見ていると、自然と口の端が緩んだ。
ここ最近、ずっと憔悴している姿を見ていたせいだろうか。
それとも私の中に芽生えたおかしな仲間意識のせいだろうか。
「良かった…」と、ほっと胸を撫で下ろさずにはいられなかった。


「やはり、これも芹沢先生がいらしたからですね。
先生が政治見識を述べると、先方は目の色を変えましたからね」
「持ち上げ過ぎだぞ、新見」
「いえ!そんなことはありません!
先方も先生が中心であるならばと、残留許可を下さったのです!」


新見さんがまたおべっかを使っている声が聞こえる。
それに、今回ばかりは芹沢さんも満更ではなさそうだ。
会津藩に認められたことが、彼は彼なりに嬉しいらしい。

しかし、会津藩はやはり、近藤さん達より芹沢さんに重きを置いたか。
海の物とも山の物ともつかぬ方より、信用するに足るのは芹沢さん。
そう判断するのは至極当然で、間違っているわけではなかった。


「話ってのはそれだけだな?俺は用があるから、失礼させてもらう」
「私も、失礼します」


土方さんと山南さんは、そう言って足早に広間を立ち去る。
少しばかり沈んでいるように見えるその表情…
決して嬉しくないわけではないようだけど、一抹の悔しさが滲んでいる。

今回会津藩に認められたのは、芹沢さんがいたから。
芹沢さんあっての、芹沢さんなしでは有り得なかった成功。
それが明確に分かるから、余計に悔しいんだろう。
まざまざと見せ付けられて口惜しい、けれど彼がいなくてはやっていけない。
現実を一番良く理解しているであろう二人の胸中を測るなんて、私には出来ない。


「さて…島原で祝杯でも上げるか。永倉君、付き合いたまえ」
「えっ…お、俺か?!」
「同門のよしみだろう。同行しろ」


芹沢さんからの指名を受けて、永倉さんは飛び上がった。
彼と芹沢さんは同じ剣を学んでいた、先輩と後輩らしい。
そのせいか、芹沢さんはえらく永倉さんを気に入っている。

可哀相…酒癖の悪い芹沢さんに絡まれたら終わりだよ。
私は憐れ永倉さんに合掌をした。
永倉さんは冷や汗を流しながら固辞しようとしているけれど、
芹沢さんは依然として同行することを要求しているから、多分無理だ。
彼が折れることなんて、万に一つもないんだから。

永倉さんも断ることは無理と悟ったのか、次はしきりに他の人を誘い始める。
平助を筆頭に、原田さん沖田斎藤と手当たり次第。
見ていると面白いくらいに説得し回っている。
すると、何人かは同行することにしてくれたらしい。


「近藤くんはどうするのだ。無論、付き合うのだろう?」
「いえ、それが…お恥ずかしいことに、俺は下戸でして」
「何だ、酒も呑めないんですか?」


揶揄するように新見さんが言う。
しかし近藤さんは、面目ないと頭を掻くばかり。
彼の善良としか言い様のない返しに、毒気を抜かれたのか新見さんはそのまま押し黙った。

そしてふと、芹沢さんがこちらを見る。
私はさっと眠気に歪んだ顔を引き締めた。
あぶないあぶない、こんなへろへろの顔してたらまた叩かれてしまう。


「犬、貴様はどうするのだ」
『は?どうするって…?』


どうするも何も…留守番してますけど。
そういう意味を込めた視線を向ける。
しかし芹沢さんは愉快そうに口の端を緩めて言った。


「貴様のような野良犬は、花街になど行ったことがなかろう」
『そりゃ、当たり前でしょう』
「大人しくしているなら、連れて行ってやらんこともない」
『いや、無理でしょう』


当たり前、の単語の前には女なんだから、と言葉が付く。
無理、の単語の前にも女なんだから、と言葉が付く。
性別を理由に拒否されるのは何とも苛付くが、こればかりは気にしない。
別に花街に行きたいと思ったことなんて一度もないからだ。

母から再三聞かされていた…花街や歌舞伎所、賭場のこと。
武家の娘が立ち入るには下賤過ぎる悪所、だと。
私は歌舞伎小屋の下働きをしたこともあったし、母の言うことが真実とは思わない。
しかし、悪い感情も抱かない代わりに良い感情も抱かない。

芸事を磨き、欲に溺れ、酒に浸る。
房事に励み、金を使い、研を競う。
私の中の花街の印象とは、そんなものだ。
興味もなければ、嫌悪もない。


『私はここで待ってます。どうぞ行って来て下さい』


じゃ、そういうことで。
芹沢さんに背を向けて、さっさと自室へと戻ろうとする。
睡魔がすぐ目の前に迫って来ていて限界だ。

しかし、次の瞬間。
後頭部に感じた激痛に、急激に睡魔が遠のいていくのを感じた。
いや、睡魔どころか意識すら持っていかれそうになった。
「いっつぁ…」と声を零しながら、片膝をついて呻いた。


『な、何すんですか…』
「貴様、俺の申し出を蹴れるような立場か」
『謹んで遠慮したじゃないですか…』
「身の程を弁えろと言っている。いいから連いて来い」


痛みのせいで言葉尻が小さくなる。
目端に涙さえ滲んだ。
心構えをしていなかったから余計に痛い。

…ていうか、拒否権がないなら初めから聞くな。
いっつもこの人は自分本位過ぎて困る。
断っちゃいけないのならこっちも断らなかった。
殴られ損だ。


痛む頭をすりすりと撫でながら
憎憎しげに芹沢さんの背中を睨み付け、花街へと向かった。