- ナノ -

穢れなきは




花街の門を潜るのは、多少抵抗があった。
男装に自信がない訳ではない。
芹沢さんには見破られたし、他にも何人かの人に
気付かれているような気はするが、見た目は男に見えなくはないだろう。

しかし、不安はある。
女は基本的に客として花街には入れない。
舞妓や芸者はまた別物だ。
大門切手と呼ばれる茶屋が発行する手形があれば
女も花街に入れるが、それ以外では通行許可は得られない。

バレたりしないだろうかと、若干緊張して門を潜る。
そして気付かれなかったことにほっと一息。
しかし次の瞬間には、安堵も吹き飛ぶくらいに瞠目した。


『(うわ…綺麗…)』


一生縁がないと思っていた花街…
そこは本当に現世なのかと疑ってしまうくらい幻想的だった。

ぼんやりと薄明るい提灯。
ほのかに香る紅や白粉の匂い。
思わず見入ってしまうくらいに美しい様相。
夜の闇に浮かぶ明かりは、本当に極楽と錯覚しそうなくらい眩い。

座敷に向かう途中なのか、数人の舞妓や芸妓の姿が見える。
しゃらしゃらと小さく音を立てる簪や髪飾り。
私にはとんと縁のないものだが、彼女達を一層惹き立てる良い装飾だ。
煌びやかな着物と相まって、その華やかさが増している。

私はふう、と感嘆の溜め息を吐いた。
花街通いに夢中になる男の気持ちが少し分かる。
こんな美しいところに一瞬でもいたら、そりゃあ現実を忘れたくもなる。
芸妓や舞妓が菩薩にすら見えてくるのだから。


「響は花街、初めてだったよな」
『うん…本当に綺麗なところだねェ…』
「だよな〜、初めて見たときオレも吃驚したし!」


平助と気も漫ろに会話を交わしながら、足を進める。
キョロキョロとせわしなく辺りを見回した。
見る物全てが、新鮮だった。

母に聞かされてきた印象は何もかも吹き飛ぶ。
自分が抱いていた感想も霧散する。
ここは思っていた以上に、美麗で御伽話の世界みたいだ。
私は子供のようにわくわくとした感情に突き動かされた。

だがそのせいで、注意は散漫になっていたらしい。
前方から近付いて来ていた舞妓に気が付かず、もろにぶつかってしまい、
きゃっと可愛らしい声を上げて、彼女は蹈鞴を踏む。
私は慌てて手を伸ばして、倒れないように小さな体を支えた。


『っと…大丈夫?』
「……へ、へェ…」
『ごめん、余所見してて。怪我してない?』
「………」


物珍しくてつい、周りに意識を持っていきすぎた。
夢中になってしまったな、と心中で反省する。
支えた少女は、私の腕に寄りかかって黙ったままだ。

もしかして、怪我でもさせてしまったか。
もしそうなら、悪いことをしてしまった。
心配になって顔を覗き込むと、何故か彼女は頬を赤くして俯いた。


『えっと…もしかして、足とか挫いた?』
「…い、いいえ!平気どす、すんまへん!」
『ならいいけど…悪かったね』
「うちこそ、すんまへんェ…おおきに」


怪我はしていなかったらしい。
良かった、と息を洩らして少女の腕を離す。
すると、少し先の方から平助が私を呼ぶ声が聞こえた。
それに答えてから、じゃあ、ともう一度少女に笑いかけた。

彼女は何か言いたげに手を伸ばしたが、
平助達に向かって走り出していた私がそれに気付くことはなかった。



「何やってたんだよ、芹沢さん達先行っちまったぞ」
『ごめんごめん、舞妓さんにぶつかっちゃって』
「はぁ?お前、ちゃんと気を付けろよ」


あんまキョロキョロしてると、またぶつかるぞ。
そう言った平助に向けて、私は眉を下げて苦笑した。
心配してくれているらしい。

だが本当に平助の言う通りだ。
私はいくら怪我しても構わないが、舞妓や芸妓は違う。
怪我なんか負ったら、座敷に出れなくなるかもしれない。
そうなったら責任取れないし、可哀相だ。

これからは気を付けよう、と前を向き直る。
あんまり物珍しげでは、田舎者と思われてしまうし。
…おっと、そうだ。


『平助、待っててくれたんでしょ?ありがと』


遅れた私を置いて行かず、待っていてくれた平助。
彼がいなかったら、多分皆には追いつけなかっただろう。
花街に初めて来た私は、全く勝手が分からないのだ。

礼を言うと、平助は面食らったようだった。
そして、頬を微かに染めてそっぽを向く。
口にする言葉も、もごもごとしていて聞き取り辛い。
…照れているのか。


「い、いや、別にオレは…」
『何?照れてんの?』
「ばっ、照れてねェよ!!」


うわ、分かりやすい。
ムキになるところが更に。

素直じゃないなぁ。
男にこんな言い方は失礼かもしれないが、可愛い。
本当に平助は可愛い。
優しいくせに素直じゃなくて可愛い。

私はくつくつと咽喉を鳴らして笑った。
平助は「笑うな!」と声を荒げてくるけど、迫力に欠ける。
あ〜、可愛い。からかいがいがある。
弟がいたらこんな感じかな、と私は思った。


*******


『…』
「……」
『………』


思考停止。
目の前で起きていることが信じられない。
永倉さん達にようやっと追い付いたのは良かったのだが…
私と平助は状況が飲み込めなくて、茫然としていた。
しかし、三拍後にははっと我に返って永倉さんに説明を求める。


『ちょっ…!どうなってるんです、これ?!』
「響…!」
『説明して下さい!!』


辺りに痛々しい打突音が響いている。
芹沢さんは番頭さんと思しき人を何度も鉄扇で打っていた。
何度も何度も繰り返し。

どうやら一見さんお断りと番頭さんに言われて、
芹沢さんがいつもの如くぷっつんしてしまったらしい。
京都の老舗や有名な店は他人の紹介があって当たり前なのに
それを聞き入れず、店に上げろと無茶振りをしかけているみたいだ。

簡単な永倉さんの説明を受けて、ずいっと前に出る。
永倉さん達を責める気はない。
きっと止めようとしてくれていたはずだ。
でも、立場的に上にいる芹沢さんに強く言えないのが現実。

ここは、私が止めるしかない。


『芹沢さ、』
「ええい!うるさい!!」
『った!!』


はい、撃沈。
名前すら最後まで呼べずに張り倒された。
怪力の芹沢さんは軽々と私を吹き飛ばしてしまう。
強かに背中を打ちつけ、痛みに呻いた。

くそ…出発前は不意打ちで殴られるし
今は地面に叩きつけられるし、踏んだり蹴ったりだ。
人の話を少しくらい聞いたらどうなんだ。


「おい響!!大丈夫かよ!!」
『へ、へーき…お〜、いた…』


打った腰を擦りながら、芹沢さんの方を見る。
彼は踏ん反り返って登楼するところだった。
殴って殴って、番頭さんを遂に頷かせたらしい。
血まみれになった番頭さんも、店の人に肩を預けて中に入っていく。

私は平助の手を借りて立ち上がった。
永倉さんや斎藤は中に入らず待っていてくれていた。
彼等に曖昧に笑って、心の中では盛大に溜め息を吐く。

…来るんじゃなかった。
やっぱり芹沢さんと一緒にいると、ロクな目に遭わない。
早々に私は、ここに来たことを後悔し始めた。