- ナノ -



平野屋…ここだろうか。
私達はとある両替商の前に立つと、
その看板に書いてある名前を見止めて暖簾を潜った。
商家の内部は綺麗に片付けてあり、丁稚の少年が店番をしている。
彼は私達に気付くと、笑みを作って口を開いた。

「いらっしゃいませ、本日はどのような御用向きで?」
「我々は京、大阪を中心に不逞浪士の取り締まりを行っている、
会津藩お預かりの尽忠報国の集団、壬生浪士組の者である。
ここの主人に用がある…取り次げ」

芹沢さんは、玄関に腰を下ろして横柄に言い放つ。
いつもながらに凄まじく傲岸不遜な態度である。
身なりからして普通の客ではないと分かっていたのだろう、
丁稚の笑顔は引き攣っていて、すっかり萎縮してしまっている。
彼は、頭を下げた。

「申し訳ありませんが、主人は只今留守にしておりまして…」
「出掛けているだと?いつ戻るのだ?」
「それが、生憎と分かりませんので…今日の所は、お引取りを」
「予定が分からんというのか。行き先は承知しておるのだろう」
「本日は予定が立て込んでおりまして…申し訳ございません」

まあ、体良く追い返そうとしているのだろう。
少しおどおどしている少年の態度は明らかに挙動不審だ。
目を泳がせて、虚言を弄して事を穏便に済まそうとしているのが分かる。
口にしている嘘はあまりにも分かりやすく、芹沢さんに通じる訳もない。
芹沢さんは冷ややかに少年を一瞥して、鉄扇を扇ぎ始めた。
主人がいないならば、ここで待たせて貰うと居座る形を定める。
それに少年は慌てた様子で、咄嗟に芹沢さんに対する禁句を放ってしまった。

「い、いえ、そこにおられると、商売の邪魔になりますので…!」
「…邪魔だと?!貴様今、この俺に向かって邪魔だと抜かしたか?!
我々は東国よりはるばる参った精忠の士であるぞ!無礼者めが!」
『ちょっと、芹沢さん!落ち着いて下さい!』
「ええい、邪魔をするな!!」

【邪魔】という言葉は決して芹沢さんに使ってはいけない。
誇り高く自尊心に溢れている彼は、自分に対する蔑言を許さない。
そんなことは少年の与り知るところではない。
商売人として当然であろう主張を少年が言い放つと、
途端に芹沢さんは憤怒の表情に変わり、少年へと詰め寄った。
そのまま刀を抜いて切りかかってしまいそうな勢いだった。

私はまた、同じことの繰り返しになると危惧し、芹沢さんに駆け寄る。
その腕を引き、怒りを治めるようにと諫言した。
資金調達に来たと言うのに、些細な言葉で人を害するのか。
先日の一件があったせいか、誰かが傷付けられることに過敏になっているらしい。
侮辱されたと憤るのは分かるが、眼前で他人を傷付けて欲しくなかった。
少年を庇うように歩み寄ると、芹沢さんは鉄扇を翻し、
その冷たく硬い縁が振り向き様に強かに私の頬を打ちつける。
一切の手加減がない打突だった。
頬に熱い痛みが伴って、後ろに二三歩蹈鞴を踏んでしまう。

「響!」
『へ、平気です…っ!』

口内に血の味が広がる。
切れた口の端から一筋、血が滴った。
それを手の甲で拭って、再び芹沢さんに詰め寄ろうとすると、
私の肩をぐっと握って、永倉さんが進むのを押し留めた。

『永倉さん!』
「こうなっちまった以上、手が付けられねェ。
芹沢さんが落ち着くまで待つしかねェよ」

そんな訳にはいかない。
あの男の子は、何にも悪いことしてないじゃないか。
留守と言ったことが嘘でも、
そう言えと主人に命じられていたら逆らえる筈がない。
なのに何故、あの少年が芹沢さんに暴力を振るわれなければならない。

「貴様のような餓鬼が、この俺を謀ろうとは…!」
「芹沢さん、いい加減にしろよ!主人は出掛けてるっつってんだろ!
こんな子供殴り散らして、一体何になるっていうんだよ?!」

見かねた土方さんも声を張り上げるが、
芹沢さんは少年を撃つ手を一向に緩める気配がない。
少年は必死に体を丸めて頭を庇っているが、
撃たれた箇所が見る間に赤みを帯び、血が滲み、痛々しい。
見ていられなくなって再び足を進めようとしたけれど、
永倉さんの腕を掴む力が強く、振り解けそうになかった。

芹沢さんは容赦なく少年を撃ち続けた。
手を緩める気配は一切なく、誰の言葉にも耳を貸さない。
傷付いた少年が呻き声を止め処なく洩らし始めた頃、
ようやく鉄扇を下ろし、再び主人を呼ぶように命令をした。
丁稚が金の入った箱を差し出しても、頑として首を縦に振らない。
少年はすっかり怯え切って、言われるままに店の奥へと進み、
焦った様子の店主と思しき男性と一緒に再び出て来た。

「…やはり店の奥に隠れていたか。我々も舐められたものだな」
「も、申し訳ありません…浪士組の方々とは思わず…」
「そう名乗った筈だがな。…まぁ、いいだろう。
我々は京や大阪にて不逞浪士の取り締まりをしておってな、
その活動資金を近隣の商人から募って回っておるのだ」

震えて謝罪をする店主に、芹沢さんは高慢に言い放つ。
このような口ぶりをされて、断れる筈がない。
もし首を横に振れば、丁稚と同じ目に遭わされるのが目に見えている。
店主は丁稚に命じて金を持ってこさせると、それを差し出してくる。

「…主人。営業停止を言い渡されたくなくば、丁稚を良く躾けておけ」
「はっ…申し訳ありません!!」

床に頭を擦り付けながら、彼は謝罪の言葉を続ける。
金の入った金を受け取ると、芹沢さんはさっと踵を返す。
それに続いて店を出ようとして暖簾を潜る直前で振り返ると、
顔を上げた店主と怪我をした少年の憎憎しげな視線とかち合う。
酷い後味の悪さを感じて、ばっと目を逸らすと足早に店を後にする。

―――胸がムカムカする……気持ち悪い。
船酔いとも違う変な感覚に、体の中を掻き乱されてるみたい。

追いついた先で見えた土方さん達の表情は、憤りに染まっている。
私はその前行く満足気な表情をしている芹沢さんの横顔を見つめて、
だらりと下げた拳を握り締めることしか出来なかった―――。