- ナノ -




私が脳内でうんうんと納得しているときに、それは起こった。
嘘…と仰天して、呆気に取られてしまうようなこと。


「いよう!征夷大将軍!!」


家茂公が進んだ通路の方から、野次が飛んだのだ。
私はぎょっと目を剥いて、信じられないと首を振った。

ば…馬鹿じゃないの!?
こんな人通りのある場所で、将軍にあんなこと言うなんて
自殺志願者か頭のイカれた奴じゃないと出来ない所業だ。

ただでさえここには、浪士組がいるし…
捕まったりしたら首をぱちんってされてもおかしくないっつうのに!

案の定近藤さんは憤慨し、すぐさま他の連中が捕縛に向かう。
人垣を割りながら、逃げて行く二人組を追いかけた。


『…?』


しかし芹沢さん達は、動こうとしない。
悠々としながら、近藤さん達の様子を眺めていただけだった。
いや、私も人のことは言えないんだがね。


「くそ…見失っちまった。逃げ足の速い奴等だな…」


皆は肩を下げて、落胆しながら戻ってくる。
まあ、予想出来た結果だ。
人通りが少ないときならともかく、こうも野次馬が多かったら
逃げる方には有利だが、追う方には障害にしかならない。


「血生臭ェことにならずに済んで、良かったとするか」


何でも二人組みの片方は、銃を持ってたらしいしな。
土方さんはそう言って、仕方ないと納得しようとしていたけど
やっぱり悔しそうだった。

捕り物、成功してたらお手柄だもんね。
そしたら将軍様のお眼に着いたかもしれないんだから…
それが無し得なくて落ち込むのは当然だろう。

近藤さんは「上様にあのような物言いをするとは…」と
不届きな野次を飛ばした者達を憂うような表情をする。
先程見た将軍の崇拝具合からして、彼の心中は芳しくないのだろう。


「ならず者に小馬鹿にされるとは、それ程の理由があるのだろう。
斯様な無礼にも平然としているようでは、将軍家の面汚しというのも頷ける」
『…え?』
「この危急にあのような無能を頭にするとは、幕府の連中の目は節穴と見えるな」
『せ、芹沢さん…?』


私は彼が何を言っているのか、よく理解出来なかった。
近藤さんも同じように目を見開いている。

私には政治のことなんて分からない。
けれど、将軍が慕われているならそれ程の理由があるはずだ。
近藤さんが将軍を敬うのにも、理由が。
なのにその尊敬の念すら貶めるようなことを言うなんて…

芹沢さんが他人を敬うなんて考えられないけど
仮にも幕府の頂点に立つ人物にあんまりな言い方だ。


「…それは、どういうことですかな?
家茂公は大変温厚篤実な方だと伝え聞いておりますが。
若くして将軍になられたのですから、執務に戸惑うのは致し方なきことかと」
「無能だから、無能だと言っているまでだ」


肩を震わせて、静かに反論する近藤さんを冷たく一瞥して、
芹沢さんはその言葉をにべもなく一蹴した。

京に閉じこもり、歌を詠んでいただけの公家。
その公家に幕府の頭が「呼びつけられる」という事実。
向こうを出向かせるのではなく、自ら京まで足を運んだ。
歴代の将軍にもここまでの恥曝しはいない、と。

せせら笑うような言い方で、吐き捨てた。
そして、ついでとばかりにもう一言。


「それとも近藤君は、上に立った者ならば
どんな無能も崇めねばならぬと、そう考えているのか?」


これが止めだった。
政治的な議論は、多分あまり関係していない。
近藤さんの行動と言動を揶揄し、嘲弄するのが芹沢さんの目的。
それに対して近藤さんは何も言わず、静かに拳を握り締めていた。


「芹沢さんは、水戸のご出身ですからね。
紀伊生まれの家茂公は将軍とは認められない…と?」
「生まれもそうだが、何より本人の資質だな」


私は山南さんの言葉にぴくりと反応した。
芹沢さんの生まれの、水戸…?
そこは確か、家茂公と将軍職を争った人がいたはず。

名を…一橋慶喜公。
成る程、芹沢さんがここまで家茂公を貶した物言いをするのは
そういう事情が少なからず関係しているからか。


「異国の連中が虎視眈々と日の本を狙っている今
英明な将軍が求められるべきだと思うのだがな。
…近藤君は、そうは考えてはおらぬということか」


言いながら芹沢さんが近藤さんへ視線を向ける。
近藤さんは俯いたまま、何も言い返そうとしなかった。
私の位置からは彼の表情を窺い知ることは出来ないけれど
きっと悔しさに顔を歪めているんだろう。

反論して来ない近藤さんについ、と視線を向けて
「暇潰しにもならなかったな」と芹沢さんは零した。
そして、そのまま新見さんを率いて帰って行ってしまう。

私は芹沢さんのお供という名目でこの場を訪れていたことも
早く帰られなければいけないということも忘れて、茫然としていた。
芹沢さんの物言いが信じられなかった。

あんな風に人前で近藤さんを貶める、無知を晒すような真似をして
わざわざ土方さん達の反感を買う意味が分からない。
沖田なんぞ、本当に射殺しかねない視線をしていたというのに。