08

「みょうじ、この問題だけど……」

 私は影山くんの進歩に驚いている。だってあの影山くんがノート取っているんだから。私が時間割を教えるようになって、授業前に教科書とノートを出す事までは当たり前になっていた影山くん。最近では初めの方は何とか頑張って現実に留まろうと努力はしているけれど、睡魔に負けて白目を剥くのは相変わらずで、そんな変わらない姿にもすっかり見慣れて微笑ましいななんて思う様になっていた今日この頃。

 それなのに、ここ最近の影山くんはこんな風に分からない場所の質問までしてくるようになった。その事に驚きを隠せないでいると「……みょうじ?」と不思議そうに見つめられて我に帰る。

「あっ、ごめんごめんっ! それで、この問題がどうしたの?」
「分かんねぇ」
「どこら辺が分からない?」
「全部」
「……」
「悪ぃ」

 面目無さそうに頭を下げる影山くんに慌てて手を振って、1から順序だてて説明をする。私の手をあの真っ直ぐな瞳が追いかける。その瞳はいつもバレーボールを追っているんだなぁと考えてハッとする。影山くんが勉強に取り組みだした理由が分かった。

「影山くん、期末試験終わりに東京遠征があるんだったよね?」
「おう。良く知ってんな」
「そういえば日向くんが言ってた」
「……あぁ」

 そう言ってコクリと頷く影山くんの思考が今は手に取るように分かる。影山くんは今、勉強の為というよりかはバレーの為に勉強をしているのだ。本当にバレーの為となったら影山くんは一生懸命になれるんだなぁ。羨ましい。そんな一生懸命で真っ直ぐな影山くんの力になりたいから、影山くんに少しでも伝わる様に、なるべく噛み砕いて質問された問題を解説する。

「だから、答えはこうなるって事なんだけど……影山くん、分かった?」
「……!」

 私の書いた英文を見つめるその姿は目の前に広がる英文の意味が理解出来たらしく、目を輝かせて私を見つめて首をぶんぶんと縦に振ってみせる。私はその姿に内心可愛いと思う気持ちと良かったという安堵の気持ちが混ざって湧き起こる。

「あざス!!」
「いえいえ。私で良ければ分かる場所はいつでも教えるよ」
「あ! 影山! 抜け駆けで勉強してる!ずりぃ!」

 体育終わりだったのか、うっすらと浮かぶ汗を肩にかけたスポーツタオルで拭いながら廊下を歩いていた日向くんが影山くんの姿に驚いてこちらに向かってくる。

「抜け駆けじゃねぇ」
「俺も負けねぇかんな! 俺も今から月島の所……はダメか。谷地さんの所は今日の昼休みにも行くし毎回は申し訳ねぇよな。……あっ! みょうじさん! みょうじさんって英語得意か?」

 百面相を繰り広げていた日向くんの表情をにこやかに見つめていると花が咲いたようにパッと顔を明るくさせて、私にそんな問いかけを投げかけてくる。

「えっ、私? まぁ、嫌いじゃないけど。谷地さんって最近バレー部のマネージャーになった子だよね? 確か進学クラスの。その子みたいに分かりやすく教えられるかの自信は無いよ……?」
「大丈夫! そんな気がする! 次の時間ここ来ても良いか!? 俺、英語苦手なんだ! 頼むっ!」
「ダメだ」

 両手を顔の前で合わせて拝むように頼んでくる日向くんに「良いよ」と快く承諾の意を表そうとするよりも早く、私と日向くんの間に座っていた影山くんが拒否をする。なんで影山くんが?そんな私の疑問を「なんでお前が断んだよ!」と日向くんが代弁してくれる。

「ダメなもんはダメだ」
「えー! なんでだよっ!」
「俺で手一杯だからだ」
「そうなのか? みょうじさん」

 影山くんの向こう側からひょいっと体をずらして今度こそ私に向かってといかけてくる日向くん。そんな事は別に無いんだけれど……。日向くんの前に座るネイビーアッシュの瞳の圧が凄くて何となく答える事が出来ない。どうしよう。なんて答えればいいんだろう……。

「そういう事だ。昼休みに谷地さんに聞きに行けばいいだろ。それかお前もクラスのやつに聞け」
「うぅ〜ん。まぁ……そうだな! 分かった! んじゃ影山! 昼メシ食ったら谷地さんとこ行くからな! あっあと土曜日練習終わり、谷地さん家行くの忘れんなよ!」
「おう」
「みょうじさんもまたね!」
「あっ、うん。バイバイ」

 頭をガシガシと拭きながら教室へと歩いていく日向を見送ってから、もう1度影山くんへと視線を戻す。影山くんはなんであんな事を言ったんだろう。そんな疑問が頭をもたげていると影山くんもこっちを向いて目線が合う。

「日向の事は、教えなくて良い」
「でも、影山くんと一緒に日向くんの事教える事だって出来るよ?」
「俺が嫌なんだ」
「えっ?」

 影山くんの言葉の意図が掴めず、きょとんとした私に影山くんはもう1度言葉を紡ぐ。

「俺とみょうじさん以外に誰かが居るのがなんつーか……何か、嫌だ」

 その理由が自分でも分からないのか、難問を前にした時のように眉根が思いっきり寄ってしまっている。でも、何か嫌だって言うのなら私にだってある。

「でも、影山くんは谷地さんに勉強教わってるでしょ? 今度、家にも行くって、さっき」

 私も何か嫌だと思っている事を意を決して伝えると「みょうじがそれを嫌っつーんなら、俺は行かねぇ」なんて真顔でさらりと言ってのける影山くん。

「えっ? や、別にそこまでの事はしなくても大丈夫だよっ!」

 行くのを辞めると今にも日向くんに言い出しそうな表情だったので、慌ててそれを制すると「そうなのか?」と首を捻ってみせる影山くんは「みょうじが嫌だっていう事はしたくねぇ」とこれまたさらりとそんな事を言ってみせる。

 私は最近影山くんの一挙一動に振り回されていると、心なしか嬉しいと感じる気持ちと共にそんな事を思った。
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