バーニャ

「Аааааа!」

 店主ロシア人の叫ぶ声が響く。その声に誰1人同情を見せないのは、返すと言った犬を返すどころか、再びスチェンカに出て八百長に加担しろと言ってきたからだ。

Я скажу ему, за чем ты гнался!お前たちのことをあの男にバラすぞ!

 まぁこの期に及んで脅迫ですか。「おまえ交渉の相手を間違えたな」と瞳を真っ黒に染めて言葉を放つ杉元さん。……ほんと、その通りだと思います。「月島軍曹、この後の我々の予定をコイツに伝えろ」そう言ってつらつらと計画を話す鯉登の言葉を訳すよりも前に店主ロシア人が「Да, я могу рассказать про человека с фотографии(お前たちが持っていた写真の情報がまだある)」と苦し紛れの言葉を言葉を口にする。
 私たちは昨日、店主ロシア人の言うことを1度呑んでいる。最早この男の信頼は無だ。みんなが店主ロシア人の言うことを信じない中、杉元さんだけが「アシパさんの行方に繋がる情報として万に1つでも可能性があるなら、俺は無視なんて出来ない」と店主ロシア人の髪の毛毟りを止めた。

 店を出て行った杉元さんを見つめ、各々が仕方ないと受け入れる。本当はこんな所で足止めを喰らう余裕なんてないはずなのに、杉元さんは少しの可能性も取りこぼそうとしない。きっと、誰よりもアシパちゃんのもとに駆け付けたいはずなのに。

「杉元さんとアシパちゃん、早く会えると良いですね」
「そうだな。俺も、早くインカラマッのもとに戻らねば」
「インカラマッ?」

 谷垣さんの言葉に首を傾げると、谷垣さんはハッとし照れたように首筋を太くした。……あー、なるほど。なるほどなるほど。まったく、いつの間に源次郎くんってば。にやにやと谷垣さんのことを見つめる私に、チカパシくんが「俺と谷垣ニシパとインカラマッは家族なんだ!」と自慢げに笑う。……えっ、じゃあチカパシくんって……「谷垣さんの息子?」そう驚けば「谷垣ニシパは隣に住んでる金玉がでっかい人!」と再びチカパシくんから爆弾が投下された。
 思わず谷垣さんの顔を見つめると、「チカパシ! それは旅での設定だっただろう!」とチカパシくんを嗜める谷垣さん。旅の設定……?

「俺とチカパシとインカラマッ――アイヌの女性で旅をしていたんだ。その道中で、まぁ……色々あって」
「なるほど。じゃあ谷垣さんも第七師団としてここに来たというわけではないんですね」
「……そうだな。俺は、マタギだ」
「ちなみに、インカラマッさんは今どこに?」
「キロランケに刺されて、今は治療中だ」
「えッ!? 大丈夫なんですか?」
「俺が戻って来るまで死ぬのは許していない」
「そうですか……それじゃあ、谷垣さんも無事に帰らないとですね」
「あぁ」

 ふっと谷垣さんの表情が緩む。昔から谷垣さんは穏やかな人だと思ってはいたけど、マタギだと名乗る谷垣さんはどこか1本芯が通ったようにも見える。それはきっと、インカラマッさんという居場所が出来たからだ。……みんな、居場所があるんだ。

「……月島軍曹?」
「……なんだ」
「どうかしました? なんか、顔色が良くないような」
「別に、なんでもない」

 月島軍曹が無表情なのはよくあることだけど、今の顔にはなんともいえない感情が乗っていたような気がした。それも一瞬だったからよくは分からないけど。なんというか、杉元さんが浮かべていた表情に似ているような、それよりももっと深いような。少し怖かった。

「大体、刺青の男の情報はどうなっているんだ」
「ねぇ鯉登。刺青の男ってよく出てくるけど、キロランケさんとはまた別ってこと?」
「あぁ。アシパは金塊の謎を解く鍵を知っていて、その鍵は刺青として網走監獄に居た囚人たちに彫られている」
「なるほど……。それをアンタたち……というか、鶴見中尉殿も狙ってるってわけか」
「なまえは何も知らなかったのか?」
「……知らない」

 鶴見中尉殿のことだ。きっと、だいぶ前から金塊の存在を知っていただろうし、計画だって練っていただろう。そして私はそのことを一切教えてもらえなかった。“駒に過ぎない”――今でもこうしてあの言葉がよぎるのは、無意識のうちにその事実が胸に刺さっているからなのだろうか。

「……それだけ大事にされていたということだろう」
「……どうだろうね」

 鶴見中尉殿だぞ――そう誇らしげに笑う鯉登に、私はうまく笑みを返せない。そんな私を見つめる月島軍曹は、やっぱり誰よりも深い闇を抱えているように見えた。……そういえば月島軍曹の居場所は、どこに在るんだろうか。



 迎えたスチェンカ2戦目。敵対する男のうちの1人が「はあッ☆」と煌めきながら服を脱ぎ捨てる。見たこともない独特なくりからもんもん――というより、暗号が彫られた体を見て全員がハッとした顔つきになる。……もしかして、これが金塊の刺青なのだろうか。

「杉元お前……コイツとスチェンカしたくて黙ってたろ」

 月島軍曹の言葉に、杉元さんは何も言葉を返さない。この試合では八百長をするようにと言われているけど、杉元さんはきっと負けるつもりなんてない。“俺に妙案がある”と言う杉元さんの言葉によって全員が腹を決めたように拳を構えた瞬間、杉元さんの体が吹き飛んだ。そうして始まったスチェンカは、昨日とは違って拮抗した試合展開を見せている。……あの刺青の人、強すぎないか。
 相手はもう刺青男しか残っていないというのに、4対1でもまったく歯が立たない。杉元さんなんてずっとあの男の相手をしているから、体力は限界に近いんじゃないか。不安に思って杉元さんを見つめた瞬間、杉元さんが「俺」と連呼しながら暴走を始めた。

「あ! そうか杉元ッ。これが貴様の“妙案”なんだな?」

 いや違うと思う。あの様子、絶対おかしい。「鯉登、」杉元さんから離れて――そう言おうとするよりも早く、杉元さんの拳が鯉登の頬を襲う。「ホントにこれが妙案なんだよな?」と尚も信じる鯉登に「早く、」と言葉の続きを言おうとすれば、今度は鎌を振りかざした杉元さんによって鯉登は右手を切られてしまった。

「鯉登ッ」

 鯉登はいつもいの一番に襲われるな……! 離れろと指示するより、私が行った方が早いと足を踏み出した瞬間。武器を持って大暴れしはじめた杉元さんによって大騒動が巻き起こる。その波に揉まれている間に全員外へと行ってしまい、みんなとはぐれてしまった。……待った、みんな上半身裸のままでは? 静かになった辺りを見渡すと、もみくちゃにされたみんなのコートが転がっていた。

「やばいじゃん、」

 全員分のコートを抱え外に出れば、びゅうっと夜風が体を突き刺す。杉元さんのことも心配だけど、まずはみんなにコートを届けなければ。全員分のコートを持っているのと、暗いのとでよく前が見えない。それでも必死に走り回っている時、ふと隣に何かの気配を感じた。パッと横を見れば、それは頭からドロリと液が零れ落ちている杉元さんだった。「ふぅ……ふぅ……」と唸る杉元さんは、まるで般若のように恐ろしい。

「コォーッ!」

 あまりにも突然の、しかも近距離の登場に動揺し過ぎて変な声が出てしまった。その声を聞いた誰かが「なまえッ!?」と反応を返してきたので、声がした方を振り向くとチカパシくんとエノノカちゃんがイソホセタと共にそりに乗って走っていた。犬取り戻せたんだ! と喜ぶのも束の間、聞いたことのある唸り声と共にクズリがこちらに向かって走って来た。……まずい、コートで手一杯で銃を持って来ていない。やばい、このままだと全員襲われる。

「わあッ」

 クズリに襲われそうになっているチカパシくんに近寄ろうとすれば、その間を裂くように杉元さんが鎌を振り下ろす。チカパシくんがその隙に持っていた村田銃に銃を装填しようとしているけど、焦りからかうまくいっていない。そんなチカパシくんに私が「貸して」と言うのと、大きな胸囲がチカパシくんの体を支えるのは同時だった。そうして現れた谷垣さんは何かをジュウ、と音立てながらチカパシくんと2人で村田銃を構えてみせる。そのまま1発でクズリを仕留め、2人で「これが勃起?」「そうだチカパシ……これが勃起だ!」と興奮し合っている。……あれかな、寒空でちょっとおかしくなってるのかな。

「俺ッ、俺は……役立たず……!!」

 いつの間にか先程の刺青男と殴り合いを再開していた杉元さんから聞こえた言葉。それまで感じていた杉元さんの悲しい気持ちは、ここにあったのか――。そのことに気付き、パッと杉元さんを見つめた瞬間フリッと何かが揺らめいた。……えッ。…………エッ。

「ギャーーーーッ!」

 さすがに見たことない。上はあっても下はない。それが5本も一気に。あまりの衝撃映像に叫び声をあげて目を覆えば、「……あッ、」と鯉登のハッとした声が耳に入った。「違うこれはアレだ。寒さで縮んでいるだけだッ、」その声が私に向かって近づいて来る気配がする。……ダメだ、さっきのフリッとした揺らめきが頭の中から離れない。

「わ、分かったから! 来ないで! 鯉登今フリチンでしょうが!」
「……ッ、ふ、フリ……ッ」

 ふらふらと鯉登が離れて行く気配を背中で感じていると、亀裂音と共にドボォっと沈む音が響いた。驚いて後ろを振り向いた瞬間、再び何かがフリッと揺らぎ水の中へと消えてゆく。今のって……。

「うひいいッ! 冷てえッ!」

 再び顔を出した杉元さんは、いつもの杉元さんに戻っていた。そのことにホッとしていれば、続々と這い出てくるフリチンたち。「あーッ、あーッ」と叫びながら慌てて汗臭いコートの中に潜り込んでいる間に、全員がどこかへと姿を消した。気配が消えたの感じゆっくりコートから顔を出してみると、チカパシくんに「なまえも来て!」と呼ばれ近くに寄る。そうして指差された小窓を覗くも、中の様子は湯気でよく見えない。それでも微かに映る人影は、全員が絶妙な格好でどこか1点を眺め続けていた。……私は一体、何を見せられているんだ?




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