気持ちと汗が沁みるコート

 スチェンカ ナ スチェンク――壁対壁。その言葉通り、4対4の璧を男たちが作り上げている。
 ヘンケの家で見た時も思ったけど、鯉登って意外と鍛えてるんだな。筋肉質な体を見てただのボンボン少尉というわけではないのだと見直すと同時に、先ほどの犬ぞりでのやり取りを思い出してしまう。顔に熱が集まるのが分かって慌てて鯉登から視線を逸らせば、視界いっぱいに胸毛が広がった。思わず2度見したそこは、窒息するのでは? と思ってしまう程の毛量を栽培する谷垣さんの胸板だった。やっぱり、あの胸は人を殺せるんだな。

「Да ты маловат будешь! Тебе бы мальцу лучше дома сидеть!(お前小さいな! 子供は帰って寝ろ!)」

 月島軍曹に向かってこんなことを言うロシア人。あーあ、言っちゃったよ。……時は来た。もう、それだけだ。

「毛という毛を毟ってやれェ!」

 開始の合図と共に誰にも負けない声をあげて応援すれば、鯉登がふっと笑うのが分かった。そうして手始めの1発目を鯉登が喰らわせ勝負が始まる。……なんだボンボン少尉、ちゃんと強いじゃん。
 そのまま杉元さんたちは勢いに乗り、遂に完全勝利を収めてみせた。月島軍曹も自分をバカにした相手と手を取り合い勝負を称え合っている。やっぱり、こういう勝負は良いな。
 勝負を終えた杉元さん達に「良い勝負でした! 最高でした!」と感想を告げにいくと、「なまえさんの応援のおかげだよ」と笑う杉元さん。その言葉にだいぶ私も熱くなっていたことを思いだし、「へへッ」と頬を掻く。みんなを送り出して、ちゃんとみんなが生きて帰ってくる。そのことが堪らなく嬉しい。「誰も死ななくて良かった」と呟けば、「この程度で誰が死ぬか。バカだな、なまえは」と鯉登が鼻を鳴らす。あーもう。台無しだわ。バカなんだろうな、この男。



 スチェンカを終え店主のもとへ行くと「Приходите завтра明日来い」と犬の返却を明日に指定された。そこで再び1戦始まりそうになったのを月島軍曹と2人で宥め、どうにか今日はこちらも疲れを癒すことで落ち着いた。そうして宿に戻りお風呂を済ませた時、ヘンケが犬の世話をしているのが目に入った。

「ヘンケ。私も手伝うよ」
「イヤイライキレ」

 アイヌ語はよく分からないけど、多分お礼を言ってくれたようだ。ヘンケの言葉に頷き2人で犬の世話をしていると、ヘンケがイソホセタが繋がれていた紐を手にとり、それを悲し気に見つめる。きっと、盗まれた犬のことを心配しているのだろう。慰めるようにヘンケの背中に手をあてれば、ヘンケはもう1度優しく笑って私の手を握りしめてくれた。……あぁダメだ。また泣きそうになってしまう。きっと、ヘンケの手が温かいからだ。

「バカすったれ! 湯冷めするぞ!」
「うわッ!?」

 突然背中に重みがかかり、視界が真っ暗になる。覆いかぶさった何かを手で掴むと、肩章が目に映った。それがコートだと分かり投げられた方向を向けば、「風邪引こごたっとか!」と怒鳴る声。うわ、懐かしいな。前にやり合った時もなんと言ってるか分からない方言丸出しだったっけ。

「ないごて笑う」
「ごめん、懐かしくて」

 鯉登が現れたことで何故かヘンケが今まで浮かべていたものとは違う笑い方をしながらどこかへと姿を消す。ヘンケは何か変な勘違いをしている気もするけど、誤解を解くすべもないし、わざわざ後を追うのもややこしくなりそうだと思いそのまま黙って見送ることにした。

「……懐かしい?」

 面食らったように私の言葉を反芻している鯉登に向き直り、「初めて会った時のこと。覚えてる?」と問うと鯉登の顔が今度はくしゃりと歪みをみせた。

「鮮烈に覚えている」
「ふッ。いやまぁ私も覚えてるけどさ。初対面から生意気だったもんね、アンタ」
「そんたわいもだ」
「前はその意味不明な方言にもイライラしたけど。まぁ、今日は我慢する」

 私の言葉に鯉登がムッとしたのが分かったけど、鯉登も言い返しはせず「……せっかく貸したんだ。しっかり羽織れ」とコートの前身頃をぐっと寄せ合う。やっぱり、鯉登からは気遣いが感じられる。あの時は悪いことしたな――とちょっっとだけ反省する。本当にちょっっとだけ。

「あの時、お父様が間に入ってくれたんだよね」
「じゃっどな」
「私、父親と良い思い出1つもなかったからさ。今思えば羨ましかったんだと思う」
「……、」

 言い合いをする私たちを見て、お父様は私を責めるでもなく鯉登の頭を掴んで「すみもはん」と謝ってきた。そうされた鯉登は鯉登で、反抗するでもなく素直に頭を下げてみせた。その親子の姿を見て、私は思わず面食らったのを覚えている。その行為1つだけで、お父様が鯉登のことを大事に育てていること、そしてそのことを鯉登がきちんと理解していることが伝わってきたから。
 あの日から鯉登とはそれきりだったけど、鯉登は決してボンボンなだけでないことがこの旅で分かった。

「まぁ、ボンボンはボンボンだけど」
「お前またッ……まぁ、面と向かって言ってくる度胸は買ってやろう」
「ありがとーございまぁす」
「貴様ァ……」

 白い息に怒りを乗せて吐き出す鯉登を笑い、宿の壁近くにしゃがみこむ。そうして見上げた空には、澄んだ空気を示すように星が散らばり夜空を鮮やかなものにしている。……あの日の夜も、いやに月が輝いていたっけ。
 宿に戻らない私を気遣ってか、鯉登も隣にしゃがみこみ、共に空を見上げる。……うわなんだこれ、なんか恥ずかしいな。あれだ、ヘンケのせいだ。

「どうしてなまえは鶴見中尉殿のもとを離れたんだ」
「あれ、話してなかったっけ?」
「一切聞いていない」
「てっきり月島軍曹から聞いたと思ってた」
「そういう話は本人から聞くべきだろう」
「へぇ。……やっぱ純粋だね、鯉登って」
「なッ……。もしかして、なまえのその言葉はバカにしているのか?」
「違うよ。今のは本当に褒めたの」
「今のは?」

 首を傾げる鯉登に「私が狙撃手として鶴見中尉殿に拾ってもらったのは知ってる?」と問えば、「それくらいは知っている」と頷く鯉登。「その恩を返したくて。戦場では、必死に撃って撃って撃ちまくった」と言葉を続けると、鯉登はじっと聞く体勢を保つ。

「仲間が撃たれた時も、泣く余裕なんてなかった」
「……そうか」
「その分、敵を何人も撃ち殺した」
「……それが大義だ」

 鯉登の言葉に偽りがないことは分かる。そして、鯉登はその言葉を慰めとして言っていることも。……でも、私にはその言葉が少しだけ痛い。

「戦いの途中で怪我しちゃって。だから途中から戦線は離脱したんだけどね。その後日本に戻ってきてからすぐ、鶴見中尉殿とウラジオストクに行ったの」
「ウラジオストク?」
「うん。そこで“これからはここで生きていけ”って。鶴見中尉殿から言われたんだ」
「鶴見中尉殿が言ったのか?」
「どうしてウラジオストクだったのか、あの時言われた言葉がどこまで本当だったのか。それは私にも分からない」
「……そうか」
「……正式な軍人じゃなかった私が鶴見中尉殿のもとを離れた今、私ってただの“人殺し”なんじゃないかって不安に思う」

 これまで抱えていた不安。誰にも打ち明けずにいたけど、どうしてか鯉登にはポロっと言葉が出てしまった。多分、鯉登相手には気負わなくて済むからだろう。

「ただの――ではないだろう」
「えっ?」
「確かになまえは正式入隊ではない。だが、なまえが敵を撃つ度仲間の命を救ったことは紛れもない事実だ」
「……!」

 いつか耳にした言葉。再びなぞるようにして言われた言葉に、目を見開く。そうして続けられる「苦しんだのではないか? なまえも」という問いに首を傾げれば、「誰かの命を奪うということに、なまえはきちんと向き合っているではないか」と重ねられる。鯉登の言葉は意外にもスッと胸の中に入り、ストンと落ちてゆく。鯉登がしている行為は、私が尾形に対してしてあげられなかったことだ。

「だからあまり思い詰めるな――とも簡単には言えんが。その……、なんというか、」
「……ありがとう。鯉登少尉」
「今……、」

 私が出来ないことが出来る。それは尊敬に値することだ。その気持ちをこめて名前を呼べば、鯉登の目も大きく見開かれた。その反応が面白くてもう1度「鯉登少尉殿?」と呼ぶと、今度は顔を逸らされてしまった。

「なまえは私の部下ではない」
「まぁそうですけど。……え、今そここだわるぅ?」

 またこの男は台無しにする。せっかく評価を改めようとしたのに。その思いで頬を膨らませていれば、「だから少尉殿などと呼ぶな。今のままで良いッ」と口早に指示を出し、鯉登は宿の中へと入って行った。……何ソレ。敬えと言ったり敬うなと言ったり。年頃なのか? あ、てか。コート。……仕方ない、明日返すか。

「えてか。このコート。スチェンカ終わりに羽織ってたヤツ……」




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