可愛い子には狩りをさせよ

「月島軍曹」
「なまえか」
「今日はお疲れ様でした」
「……あぁ」

 公演を終えた夜。お風呂へと向かう月島軍曹と出くわし声をかける。あれから山田座長たちは捕らえたロシア人から話を聞き出し、目的が山田座長であることを知ったらしい。なんでも、座長は巡業を繰り返す傍らで諜報活動をこなす日本のスパイなのだという。それをロシア政府に気付かれ、今回の殺し屋が送られたというのが事の次第であると月島軍曹が教えてくれた。

「あのロシア人たちは……どうなったんですか?」
「……さぁ。そこはあの人たちの問題だからな」

 殺しという行為を生業にする人たちの行き着く先――口にされずとも分かる末路に、ぐっと口を噤めば月島軍曹から「なまえ。どうして戻って来た」と静かに問われた。月島軍曹を見ると、月島軍曹は前に見せた時と同じ表情で私を見つめていて、思わず息を呑む。前は「分からないままなのは辛いだろう」と理解を示してくれたのに、今はどう思っているのかさえ分からなくて少し怖い。

「せっかく鶴見中尉殿から居場所を与えてもらったんじゃないのか」
「居場所……、」
「鶴見中尉殿から贈られたリボンはどうした」

 月島軍曹の目が私の髪を捉える。その目を見た時、「綺麗な髪だ」と褒めてくれた日のことを思い出した。……月島軍曹は、昔からこういう目をすることがあった。この人の中には一体、何が在るんだろう。

「今も持ってます。……私って、鶴見中尉殿にとってなんだったんですかね? 利用する為に拾われたってことは分ってるんですけど、なんの役にも立てなかったし」

 金塊のことだって何も知らされていなかったし、拾われるだけの価値が作り出せていたのか、今となってはそこも分からない。

「だから捨てられたのかな」

 あの時の鶴見中尉殿の言葉はやっぱり本心だったのだろうか。不安を苦笑気味に溢せば、月島軍曹の顔が前を向く。そうして吐き出された「……大事にされていたからこそだろう」という声は、地を這うような低さで思わず1歩距離をとってしまった。……今目の前に居る月島軍曹からはいつものような厳しさとは違う、狂気なようなものを感じる。

「だからなまえをウラジオストクに置いてきたと知った時、俺はあの人のことを評価したんだ」
「月島軍曹……?」
「そうすることでお前も救われたと思っていたのに。何故“戻る”という選択をしたんだ?」
「それは、」
「分からないことが苦しいのは分かる。……だが、今なまえは救われているのか?」

 月島軍曹の圧が凄くて、遂には声を発することが出来なくなってしまった。何をどう答えれば良いか、必死に考える間も「死人を見て動揺するような人間が、どうして鶴見中尉殿のもとに戻りたがる?」と追撃は止まらない。言葉を発そうと口をパクパクさせるけど、なんの単語も出てこずただひたすらに短い呼吸を繰り返すだけの私に、月島軍曹は冷たい視線を向け続ける。……こんな月島軍曹、初めて見る。

「まだなまえは戻れる場所に居るんだ。わざわざこっちに来ることはない」
「……月島軍曹、」
 
 私には、本当の鶴見中尉殿が分からない。きっと、私には見せていない姿だってあるはずで、その姿を月島軍曹は見てきたのだろう。彼の中にある狂気じみたものは、その鶴見中尉殿の姿によるものなのかもしれない。……私にはやっぱり、まだまだ知らないことが多過ぎる。そこをそのままにして、ここで立ち止まるなんて出来ない。

「何も知らないのは、分からないことと同じくらい辛いです」
「……、」
「やっぱり、その状態でぬくぬく生きていくなんて、私には出来ません」
「……それで良いのか? なまえはその選択を後悔するかもしれないんだぞ」
「もしそうだとしても、その後悔は受けるべきものです」
「…………どうして。救われる道があるのに、」
「救われてなんかいません。今の状態は、誰も救われてなんかない」
「なまえ、」

 私も。月島軍曹も。……尾形も。杉元さんやアシパちゃんだってそうだ。この人たちの存在を知ってしまったからには、見て見ぬふりは出来ない。もし出来るのであれば、月島軍曹の抱えるものも軽くしてあげたい。そう思ってしまうのは、おこがましいことかもしれないけど。だけど、そう思ってしまうのだ。私は、今度はちゃんと色んなことと向き合いたい。

「……好きにしろ」

 そう言って場から立ち去る月島軍曹。その言葉を吐きだす月島軍曹の顔は、心なしか明るさを取り戻していたような気がして、それが少しだけ嬉しかった。



「みんな元気でね」

 紅子先輩との別れの朝。源次郎……谷垣さんと共に紅子先輩の旅立ちに涙を流し続ける。そんな私たちを見つめる月島軍曹の顔はいつも通りの無に戻っていて、少し安心する。その表情のまま月島軍曹は鯉登大絶賛の記事を軽く流し読み、「2行書いてる」と杉元さんのことが書かれている行を指差す。……良いじゃない杉元さん。私なんて1行も書かれてなかったよ。まぁ、私の煌めきは言葉になんて出来ないけども。

「鯉登くん頼む!! ヤマダ一座に残ってくれ!!」

 座長の頼みにニヤニヤと鯉登を見つめれば、「……なんだ」と少し気まずそうに言葉を返してくる鯉登。視線を逸らしながら頬を掻く鯉登に、再びにんまりと口角を上げる。

「まさか、行って欲しくないなどど「行けば?」……キエッ?」
「キエエイな軽業で世界を沸かせれば? 鶴見中尉殿も喜ぶかもよ?」
「貴様……昨日は健気だったくせに……!」
「昨日? なんの話?」
「とぼけおって……!」

 くぅと悔しそうな顔をする鯉登を笑って顔を逸らす。……こうでもしないといつも通りに戻れそうもない。鯉登は単純だから、今のやり取りでいつも通りに戻ってくれるだろう。鯉登の見えない所でふぅっと深呼吸していると、チカパシくんが「勃起?」と訊いてきた。……あぁそうだよ! 勃起だよ!

「鯉登くん頼む!」
「それは出来ない」

 もう1度懇願する山田座長の言葉を、今度は即答で断る鯉登。鯉登が持ち出したのは、鶴見中尉殿の写真。その手にはちゃっかり昨日新たに手に入れた写真も携えられている。その写真を見つめながら鯉登と鶴見中尉殿の出会いについて思いを巡らせていれば、鯉登が勝ち誇ったような笑みを浮かべてきた。……コイツほんと純粋無垢だな。

「1枚やらんこともない」
「……いい、要らない」
「むッ? 鶴見中尉殿のお写真だぞ?」
「私にはコレがあるから」
「それは……、」

 鞄から取り出すリボン。そのリボンを見て鯉登が絶句したのはきっと、頭で思い浮かべていたものから姿がすっかり変わり果ててしまっていたからだろう。これは、私の戒めのようなものだ。このリボンを身に付けている間に奪ったものを忘れない為に。だからこそ、ウラジオストクで贈られたリボンには手をつけられないでいる。

「なまえ、貴様……」
「欲しいって言ってもあげないから!」
「なッ、だ、誰がリボンなど……」
「あー、リボンのことバカにした! リボンの可愛さに気付けないなんて! 鯉登くんってばほんとおバカさんだよね」
「キエッ……バカにするな! 私だって、」
「私だって?」
「……リボンを可愛いと思う気持ちはある」
「へぇ〜そうなんだ。じゃあ今度リボン一緒に買いに行く?」
「いや、それは、」

 いつも通りの空気感が戻ってきたなとほっとしている所で「我々はある男たちを追っています」と月島軍曹が混沌とした空気を突っ切るように座長に尋ねた。そうして得た“アレクサンドロフスカヤ監獄”という情報。ここにキロランケさんの昔の仲間が居るかもしれないらしく、きっとアシパちゃんたちはそこを目指しているのだろうと新たな予測が立つ。

「樺太公演は失敗だったが、ヤマダ座長から重要な情報を得ることが出来たな……」
「失敗じゃねぇよ」

 月島軍曹の言葉に、杉元さんが自信満々に笑う。新聞を見ながら「たったの2行だし誤字だけど、アシパさんは賢いから読めば気付くはずだ」と続ける言葉に私も頷き、杉元さんと笑い合う。チカパシくんに訊いて知ったけど、どうやらアシパちゃんはオソマ――うんこが好きらしい。どうか今だけはあの綺麗な青い瞳に、オソマではなく杉元さんの勇姿が映っていますように――。

「よし、そうと決まれば早速移動だ!」
「なまえ……お別れだね」
「フミエ先生、」
「ちょっと寂しいさね」
「フミエ先生……、私、私……ッ」

 フミエ先生が私の手を取り、瞳を伏せる。……そうだ。フミエ先生からしてみれば紅子先輩ともお別れだし、私と谷垣さん……源次郎ともお別れなんだ。そう思うと引っ込んだと思っていた涙が再びこみ上がるのが分かる。……フミエ先生……。

「なんだい、最後くらい笑いなよ」
「それはフミエ先生だって、」
「まったく、可愛くない子だねェ」
「フミエ先生……ッ」
「源次郎のケツ、なまえが叩いてやるんだよ」
「……はいッ」

 そう言ってどちらからともなく熱い抱擁を交わす。フミエ先生の腕の中は温かくて、その優しさが涙を促してくる。ばれないように嗚咽を漏らす私に、フミエ先生は何も言わずただ背中を擦り続けてくれるから。それがまたどうしようもなく泣けてしまう。

「ほら、さっさと行きな」
「フミエ先生、どうかお元気で」
「……なまえもね」
「ありがとうございました!」

 さようならフミエ先生。さようなら紅子先輩。さようなら、みんな。フミエ先生の最後の指導通り、ヤマダ一座の皆さんにとびきりの笑顔を向けて背を向ける。けれど犬ぞりが走り出した瞬間、私の涙腺は大崩壊してしまった。……でも、最後の言いつけはちゃんと守ったから。フミエ先生はきっと許してくれるはずだ。




- ナノ -