消しゴムが運んできた人生


 あの日から、私と牛島くんの距離はぐっと近付いたと思う。それは感覚的なものもあるし、実態的な距離でもだ。
 ジャージを返す約束をした日から、玄関へと通じる行き道で練習終わりの牛島くんと出会うことが増え、そこから一緒に教室まで歩くようになった。そして、今ではそれが習慣となっている。私もそんなにお喋り好きではないけれど、牛島くんはもっと静かだ。2人で何も喋らずに歩くことも多いけど、別にそれが気まずいと感じたことはない。なんというか……それが心地良いというか。初めはドキドキして喋りすぎてしまうこともあったけど、そんな時も牛島くんは怪訝そうな顔をすることもなく、私の話を丁寧に聞いてくれた。そうして2人で歩くことに烏滸がましいかもしれないけれど少しずつ慣れていって、今では喋りすぎることもなく、丁度良いテンポで会話出来るようになった。

「今日は夕方から雨が降るって言ってたね」
「傘は持ってきたのか」
「うん! 今日はちゃんと折りたたみ傘持って来たよ」
「そうか」
「あの日からお天気キャスターさん的中率100パーセントになったんだよね。努力してて凄いなぁ」
「そうだな」

 日常的な会話を交わしながら教室に入り席に着く。牛島くんは私の右隣に座る。あれからしばらくして席替えが行われ、私と牛島くんは隣同士になった。初めこそドキドキして牛島くんの方を見ないように、なんて変に意識してしまっていた。だけどそれも朝一緒に登校しているおかげで、変な意識をせず自然に振舞えるようになってきた。
 牛島くんはいつも静かに、黙々と自分のすべきことに取り掛かる。そんな牛島くんの隣が心地良くて、もうずっとこの先席替えなんてしなくて良いのになんて我が儘なことを思ってしまう。

「今日理科の時間、小テストだよな〜? どの教科も小テストしすぎじゃね? なぁ、若利もそう思うだろ?」

 私たちが席に着くなり、牛島くんに話しかけるのは私の前の席に座る牛島くんと同じバレー部の山形くん。「赤点取ったらどうなるかあかってんの〜? なんてなっ!」ドヤ顔を浮かべ私に何かを期待するような眼差しを向けてくるから、どう反応して良いかが分からず牛島くんの方へと視線を泳がす。

「山形、今のはどういう意味だ?」
「えー、だからぁ! 赤点取ったら、どうなるか分かってんの? っていう駄洒落だろ〜?」
「……あぁ、成る程。“赤点”と“分かっている”を掛けたということか」
「若利、駄洒落を解説されんの、超ハズいんですけど」
「そうなのか?」

 そう言って山形くんをまじまじと不思議そうに見つめる牛島くんがなんだかおかしくて、思わず笑ってしまう。

「みょうじは山形の今の駄洒落がおもしろいと思ったのか?」
「ううん、今のは牛島くんの顔がおもしろかったんだよ」
「俺はそんなに面白い顔をしていたか? 俺も山形の駄洒落がおもしろいとは思わなかったのだが」
「ねぇ。さっきからお2人さん、俺が傷付いてることにちゃんと気付いてる?」

 山形くんが胸を押さえながら恨めしそうに言ってくるので「ご、ごめんなさい! でも、きちんと意味は分かりました! 山形くんは駄洒落好きなんですね!」と慌てて取り繕う。

「みょうじさん、そこはごめんな謝意だぜ?」
「山形、今の“ごめんな謝意”と言うのは……」
「良い。若利はツッコんでこなくて良い。悪かった、俺が悪かった」

 そう言いながら前を向く……というより、牛島くんから逃げていく山形くんを笑っていると牛島くんから「みょうじは笑い上戸なんだな」なんて言われてしまう。……違うよ、牛島くん。私、笑い上戸なんかじゃないよ。私が今こんなに笑っていられるのは、牛島くんが居るからなんだよ。牛島くんと話すだけでなんでも楽しくなるから。
 少し前まではこんな風に自分が笑えるようになるなんて、全然思わなかった。以前の自分を思い返していると、隣で牛島くんが筆箱の中からシャーペンと、私が拾おうとした時よりだいぶ小さくなってしまった消しゴムを取り出していた。……あの時、あの消しゴムが足元に転がり込んでこなかったら。たとえ牛島くんと隣の席になったとしても、こんな風に会話するなんて無理だったと思う。

「どうした。俺の消しゴムに何か用か?」
「ふふ。……ううん、なんでもないよ」

 俺の消しゴムに何か用かって……。なんだか変な言葉だな。山形くんの駄洒落よりもおかしくて笑みが零れてしまった私に、牛島くんは少しだけ眉根を寄せるけれど「そうか」と納得して準備へと戻ってゆく。
 牛島くんの消しゴム、あの時は私のもとに転がって来てくれてどうもありがとう。こんなこと言ったら牛島くんは“どういう意味だ?”って訊いてくると思うから、心の中だけでお礼を告げておいた。

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