転機の音


 昨日雨に打たれることも体を冷やすこともなく帰れたおかげで、今日もこうして早めに登校することが出来ている。今日の私は牛島くんのおかげでここに居るのだと思うと、なんともいえない感覚に陥る。
 家に帰ってからすぐに洗濯して丁寧に乾燥させて、アイロンがけしたジャージは普段から丁寧に着ているジャージだったんだろう。綻びもなく、持ち主に似て皺1つないジャージは私が着るにしてはとても大きなものだった。けれどジャージのおかげで私は風邪を引かなかったのだと思ったら、無意識のうちにジャージに頭を下げていた。
 そのジャージは今、きちんと畳んで袋の中で傘と共に私の右肩に提げられている。朝教室で渡そう。あとお礼もちゃんと言わないと。今日こそはパニックにならずに話せると良いな。頭の中で牛島くんに対するお礼の述べ方をシミュレーションしつつ自動改札を抜ける。右手でピッと。今日は成功した私を良く出来たと褒めるかのように袋の中のジャージが音を立てる。そんなジャージを見て私は思わず笑みが零れてしまうのだった。



 いつも通りの時間に登校し、いつものように端を歩く。昨日ここで牛島くんとすれ違った時は、まさか牛島くんから傘とジャージを借りることになるだなんてなんて思ってもなかった。昨日を思い返したあと目の前の景色に意識を戻したら、前から走ってくる牛島くんが目に映る。昨日もすれ違ったけれど、牛島くんはいつもこんなに早い時間から走りこみをしてるんだなぁ。普段は俯いて歩いているから、誰かとすれ違っても気付きもしなかった。もしかしたら、私は毎日牛島くんとこうしてすれ違っていたのかもしれない。牛島くんのことを無意識のうちにじっと見つめていたせいで、牛島くんも私の視線に気付いて足を止める。

「どうした、みょうじ。俺の顔に何かついているか」
「えっ、あっ……ごめん。部活の邪魔しちゃったね」
「いや。少し休憩しようと思っていた所だ」
「そうなんだ。……あ。牛島くん、ジャージ、」

 牛島くんが薄着で走っていることに気付き慌てて袋に手を伸ばす。昨日私に貸してくれたから。風邪でも引かせたら申し訳なさで私も一緒に寝込みそうだ。「ご、ごめん! 返すね!」そう言って袋をガサガサ音立てる私を「良い」と制する牛島くん。

「またすぐ走りに行く。しばらくは不要だ」
「そ、そう?」

 おもむろに屈伸を始める牛島くんに「昨日はありがとう」とポツリとお礼を言う。シミュレーションのように上手くはいかなかった私の細々としたお礼を牛島くんはきちんと拾い上げ、「みょうじの役に立てたのなら、何よりだ」と返してくれる。……昨日も思ったけど、牛島くんってこんなに柔らかく笑うんだ。その笑みに胸がきゅっと締まるのが分かる。 

「助かった。すっごく」

 もう1度、今度はきちんと言葉を発すると「そうか」と返す牛島くん。そして「……みょうじの勉強が終わってからで良い。その頃俺も走り終わる」と言葉を続けられ思わず「ん?」と訊き返す。

「もし良ければ、その時に体育館へそのジャージを届けてくれないか」
「あっ、うん。分かった!」

 牛島くんの提案に思い切り頷くと、もう1度目を細めて「じゃあ、また」と牛島くんは力強く足を踏み出し走りだしてゆく。……んっ!? 牛島くん今、私の勉強が終わったらって言った? なんで私が勉強してること知ってるんだ? あっ、そっか。部活していない生徒が早めに来たら勉強しに来たって思うか。普通に考えたらそうだよね。うん、そうに違いない。
 だから、私のことを牛島くんが見てくれていた――なんて早とちりするんじゃない。口角、どうかそれ以上緩くならないで。心臓も。これ以上早打ちしないで欲しい。もう既に私、死にそうな程に体が暑いから。お天気キャスターの予報が1日ずれで的中したみたいだ。

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