傘を持ってきていない日に限って雨が降ったとしても


 数学の小テストは朝勉強した部分が出て、いつもよりは出来た気がする。なんだか良い日になりそうな気配。少なくとも、これで朝の改札事件のことは薄めることが出来た。
 1時限前に行われた数学の小テストへの手応えを感じつつ、思わず口角があがってしまいそうになるのをぐっと結び堪える。そうやって口角と格闘しつつも私の目線はつい牛島くんの方へと向かってしまう。牛島くんは隣の列の少し前に座っている。姿勢正しいなぁ。私ももう少し背筋を伸ばせば自信が出てくるだろうか。背骨に力を入れ、胸を張って……なんて牛島くんの姿勢を見ながら研究していると「みょうじ〜」と名前を呼ばれて我に返る。
 今は英語の授業でこの前の小テストの返却が行われている時間だった。私の番が来て名前が呼ばれているのだと理解し、慌てて前へと足を向ける。

「今回も中々良い出来だったな。この調子で頑張るように」

 先生が満足そうに目を細めながら返してくれたテスト用紙を見つめるとみょうじなまえと書いた名前の横に二重下線が引かれた98という数字が目に入る。やった! 過去最高得点だ! 今勉強してる所、結構好きな部分なんだよなぁ。なんだか良い日な気がする。テスト用紙を見つめ、今度はにんまりと口角が上がるのを抑えられずにいると足元にコロンと消しゴムが転がり込んできた。誰かが落としたのだろうかと思い、しゃがみこんで左手を出した時。同じタイミングで伸ばされた大きな手がその消しゴムを拾いあげた。消しゴムの行方を見届けようと自分の視線も上へと向けた時、消しゴムを左手に持った牛島くんとそのまま目線がかち合う。

「すまない」
「……あっ、いえ。全然、大丈夫……」

 なんてよそよそしいんだ、私は。だってしょうがないじゃないか、相手はあの牛島くんだ。唐突な出来事に脳内で様々な言い分が駆け巡る。それらを取っ散らかし軽くパニックになっている私は、何もうまい返しも出来ないまま立ち去ろうとした。その動作の途中で、牛島くんの左手小指の側面が黒ずんでいるのが見えた。

「手……」
「手?」

 思わず漏れてしまった私の小さな声を、牛島くんはきちんと拾って尋ね返してくる。……あの射抜くような目線で見つめられると、逃げ場がないような気がしてしまう。ヒュっと喉が締まる気がしつつも、なんとか言葉を搾り出す。

「あっ……いや……左利きだと、縦書きの時以外は手、黒ずんじゃうよなぁ……なんて……」

 細々と頼りなく話す私の言葉に、牛島くんは自分の左手をまじまじと見つめる。「縦書き以外はいつもこうだ」と答える牛島くんに私は「だ、よね……」と力なく返すことしか出来ない。……良い日になる予定だったのに。また自己嫌悪タイムがチラ見えしはじめた。
 牛島くんの真っ直ぐな瞳に、私が映っているのが分かる。まさか牛島くんと話すことがあるだなんて思ってなかった。どうしよう。今の私、どんな顔をしているんだろうか。おかしくはないだろうか。……あぁ、なんであんなことを口走ってしまったんだ。左利き仲間みたいな意識が芽生えてしまったんだろうか。だとしたらなんて烏滸がましいんだ。早速始まった自己嫌悪に蝕まれていると、「みょうじは何か対策はしているのか?」と牛島くんが質問を投げかけてきた。

「へっ?」

 投げかけられた言葉の意図が理解出来ず、なんとも腑抜けた声をあげる私に「みょうじも左利きだろう? 何か、手に付かないような対策などはしていないのか?」ともう1度丁寧に問い掛けなおしをしてくる牛島くん。

「あ、うん。そう。私も左利きなんだ。えと、左利きって結構大変だよね! 不便っていうか、なんていうか……。た、対策っていうか、私は小さな紙とか下敷きを小指の下に当てて書いてる……よ」

 あぁ、今の私、完璧テンパってる。まさか牛島くんが私も左利きだって知ってたなんて。……というかそもそも。私の名字知っていたんだ。え、どうして? どのタイミングで? まさか、知らないうちに見られていた……? その時の私は変じゃなかった……? いや待った。今の発言、左利きを武器としている牛島くんに“大変だ”とか“不便だ”とか言って失礼にも程がなかった? まずい、なんてことを口走ってしまったんだ。
 考えるうちに顔が青ざめてゆくのが分かる。……良い日なんかじゃない。全然。なんでもっと自然に話せないんだろう。もう、本当に自分が情けない。自分に失望してヘコんでいると、牛島くんがふっと笑った気がした。

「みょうじは表情が色々と変わるな」
「……えっ?」
「テストが返された時は嬉しそうだったのに、今はとても慌てているように見える。今度、俺も紙を当てて試してみよう。急に話しかけてすまない。ありがとう」

 そう言って満足そうに前へと向きなおす牛島くん。……慌てているのはあなたのせいですよ。自分の席に戻って牛島くんに心の中で言ってみても、牛島くんには届かない。……牛島くんだって、あんな風に笑うなんて知らなかったよ。

 ありがとう――その言葉は、間違いなく私に向けられたものだ。どうしよう。私、牛島くんとおしゃべり出来たんだ……。
 今日は誰がなんと言おうと、とても素晴らしい良い日だ。

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