自覚


 牛島くんと毎日同じ場所ですれ違っていたことを知ってからは、下を向いて歩くのが勿体ない気がして前を向いて歩くようになった。立派にそびえ立つ建物にはやっぱりまだ恐怖心みたいな気持ちを抱いてしまう。だけどこの学校に来たおかげで牛島くんと出会えたんだと思ったら、感謝の気持ちも浮かんでくるから不思議だ。私自身にこんなにたくさんの感情が潜んでいたことにも驚く。私でさえ知らなかった私が牛島くんによって引き出されている。それは、どうしようもなく嬉しいこと。
 
「今日は居ないのかな」
 
 いつもなら牛島くんとすれ違う場所まで来たのに、牛島くんの姿が見えない。「おはよう」と言ったら「あぁ、おはよう」と返してくれるあの瞬間が、“今日も良い日になりそうだ”と思わせてくれる大事な瞬間で、私にとってのルーティーンのようになっている。だけど約束してるわけじゃないし、牛島くんには牛島くんの予定だってある。今日は残念仕方ないと自身に言い聞かせ、図書館へと歩き出そうとした時。

「オヒメサマ〜!!」

 どこからか大きな叫び声が聞こえてきた。演劇部の練習だろうか。それにしては近い場所から聞こえてくるような。
 思ったよりも至近距離から聞こえてくるその声の方向へ顔を向けると、赤い髪の毛をツンと上に向けさせた男子生徒がこちらに向かって両手を頬に当ててた状態でもう1度「オヒメサマ〜!」と叫ぶ。……呼ばれてますよ? と誰かに視線を送ろうとしても、ここに居るのは私だけ。……えっ、私? 私に向かって言ってる? そんな疑問が私の顔から伝わったのだろう。赤髪の人はうんうん、と頷いて手招きをしてくる。ジャージを見る限り、バレー部であろうその人は警戒しながらも近付く私を見て満足そうに笑う。

「あ、あの……?」
「わ、俺初めてオヒメサマと喋った! オヒメサマってそういう声してたんだね!」
「えっと……すみません。私“オヒメサマ”って言う名前じゃないんですけど……。人違いでは?」

 おずおずと尋ねてみるけれど、赤髪さんはううん、と尚も笑顔を崩さないまま「人違いじゃないよ! 君で合ってる!」と首を横に振る。

「てかオヒメサマ。本当の名前はなんていうの?」

 オヒメサマという名前ではないと知っているけど、私の名前は知らない。だけど私のことは知っている。……この赤髪さんは、何者なんだろう? 疑問ばかりが浮かんできてパニックになりかけている頭は、とりあえず聞かれたことに答えるという単純な作業を優先させる。

「みょうじ、なまえです。……あの」

 その次にまずは状況確認をと思った私は赤髪さんに名前を尋ねようとしたら、「あ。俺? 俺は覚って言います! 若利くんの親友ダヨ〜」と私の気持ちを悟ったようなタイミングで名乗ってくれた。牛島くんの親友なのか。ちょっと意外。

「えっと覚、さん。私に何かご用でしょうか? 初めまして、ですよね?」

 名前が分かったのは良いものの。未だに状況の確認が出来ない私は尚もパニック状態から抜け出せない。もしかして……ウチのエースにちょっかい出すなとか、そういう釘刺し的なヤツ? だとしたらとにかく謝罪して……。パニックにパニックを重ねる私に、覚さんは「うん、そうだね。話したのは今日がハジメテ! 話せて嬉しい」と笑いかける。良かった、怒ってはなさそうだ。

「なまえちゃんはさ、いつもひっそり過ごしてるデショ。だから俺とか、他の人のことあまり知らないよね」
「そう、ですね。……ごめんなさい」

 ひっそりと誰からも見つからずに過ごすのが私にお似合いだと思っていたから、私も誰のことも知ろうとしないまま学校生活を過ごしていた。その気持ちがバレていたんだと思うと、なんだか申し訳なさを感じてしまう。

「違う違う! ごめんね、謝らせたくて言ったんじゃなくて。なんだか勿体ないなぁって思っちゃって、つい」

 覚さんが少し慌てたように手を振る。意図が掴めずにキョトンとした私を見つめ、覚さんは言葉を続ける。

「最近、若利くんと話すようになってからのなまえちゃんは毎日が楽しそうだなぁって思うんだよ。ずっと下を向いていたのに、最近は前を向いて歩くようになったし。暗い表情で過ごしてるなまえちゃんより、今のなまえちゃんの方が絶対魅力的だなって思うし。それに若利くんもね――」
「そこで何をしている」

 若利くん、と気になるワードが出て思わず覚さんの顔を見つめた瞬間。張本人の声が矢を放つような鋭さで届いた。

「牛島く「先に行っている」

 私の声を遮るようにして放ったその声は、棘が含まれている気がして思わず肩に力が入る。……牛島くん、なんか怒ってる? 私、何かしてしまっただろうか。でも、牛島くんを不機嫌にさせた理由が見当たらない。もしかして、牛島くんと話せるようになってから馴れ馴れしくし過ぎた?
 牛島くんの冷たい声がグルグルと頭を巡って支配する。一気に気持ちが沈み目の前が暗くなる私に反し「あらー、若利くん。怒ってたねぇ」と隣の覚さんはあっけらかんとした様子で呟く。

「私、何かしてしまったんでしょうか……?」
「ううん。なまえちゃんは何もしてないよ。気にしなくて良いからネ。じゃっ、今日も勉強頑張ってね〜!」

 気にしなくても良いと言える根拠は一体なんなのだろう。尋ねようにも既に走り出した覚さんは私からどんどん離れてゆく。私の存在なんてとっくに忘れ去ったんじゃないかというほどの軽やかさで踏み進みていた足に、覚さんは急ブレーキをかけてバッと振り返る。大きな目を更に見開き、すぅっと息を吸う覚さん。

「なまえちゃん! もっと自分に自信持って良いんだからね! あと! 今日もちゃんと、若利くんと教室まで登校してあげてね〜!!」

 手を振って今度こそ満足そうにふふん、と息を吐いて走り出して行く覚さん。元気いっぱいな覚さんは、見ていて気持ちが良いと思う。ニコニコと笑って、初めて話す私を勇気付けてくれて。私が知ろうとしていなかったせいで、こんなに優しい人が居るってことを知らないまま3年間を過ごす所だった。……ありがとう、覚さん。
 その場に1人取り残された私は、そこで初めて敷地の真ん中に立っていることに気が付いた。改めて校内を見渡してみる。端っこを歩いている時とはまた違った景色がそこにはあって、何年と通ったくせに本当に何も知らないことを痛感する。

「勿体ない、か」

 確かに、覚さんの言う通りかもしれない。ここに入学すると決めて、実際に入学出来て、毎日勉強して。憧れだった牛島くんとこうやって毎日話すことが出来ている。
 運が良かったと思う。だけど、本当にしたいことは自分で選ばないと。運任せだけじゃ駄目だ。だから、牛島くんにちゃんとさっきのことを訊こう。1人でうだうだと考えていたってしょうがない。このまま牛島くんと距離が出来てしまうなんてことだけは絶対にしたくないから。したくないからこそ、ちゃんと訊くんだ。そう決心し、ネガティブな思考を吹き飛ばし大きく力強く足を前へと踏み出す。

 私は、牛島くんのことが好きだ。この気持ちだけは自信を持っていたい。その為には、変わらなきゃ。

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