Калинка


 数週間後。勤務先に話を通したり、引継ぎをしたりと色々な準備を終えて辿り着いたボーダー。まさか数年間に亘って拒絶された場所にわずか数週間で入ることが出来るだなんて。人生って何が起こるか分からない。

「まさにぃ居るのかな……」

 もしかしたらまさにぃは既にボーダーを辞めてしまっているかもしれない。そうだとしたら、数年かけて辿り着いた場所に私の理由はないことになる。……どうしよう、私結構後に引けない場所まで来てしまった。

「なまえちゃん」
「唐沢さん!」
「ようこそボーダーへ。ひとまずウチのトップたちに挨拶しに行こうか」
「は、はい!」

 面接も試験も何もかもすっ飛ばしてボーダーに入ったから、唐沢さん以外の上役をよく知らない。もし私がブラックリストに載ってて、そのせいで入隊拒否されてるとかだったらどうしよう。挨拶に行って、怪訝なムードとかだったら心が折れそうだ。

「城戸司令、紹介します。彼女がみょうじなまえさんです」
「は、初めまして。みょうじなまえと申します」
「……唐沢くんから話は聞いている。ボーダーの一員として力を発揮してくれることを期待している」
「は、はい……!」

 ボーダーのトップ、城戸司令。大きな部屋の1番奥に座し、じっと私を見つめ返す男性はトップにふさわしい雰囲気を醸しだしている。この街全体を支配しているような、そういう仄暗い怖ささえ感じるけれど、これからこの人も私の上司になる訳だし、こんな感想は失礼だ。



「城戸司令、怖かったでしょ?」
「えっと……はい」
「はは。色々と厳しい人だけど、俺はあの人以上に仕事が出来る人を知らない」
「唐沢さんが言うならそうなんでしょうね」
「さ、次は誰のとこに行こうか」

 唐沢さんに連れられ、最上階のフロアを歩いている時「……唐沢さん」と低く落ち着いた声が鼓膜を震わす。……もう振り返らなくても分かる。何年も聞くことが叶わなかったその声。早くその姿を捉えたいような、捉えたくないような。そんな葛藤を人知れず繰り返す私の隣で「丁度良かった。挨拶に行こうと思ってたんですよ、忍田本部長」と唐沢さんの声が容赦なくその人の名を口にする。

「なまえちゃん」
「は、はい」

 唐沢さんに促され、ゆっくりと振り向けば一瞬呼吸すらままらなかった。後ろに流していた髪は短くなっていて、無造作なまま。だけど顔つきは昔より凛々しくなって、落ち着き払った居住まいはまさにぃが大人になったことを表している。
 “大人びている”と思っていたあの頃。今では本当の意味で“大人”になった。……それもそうだ。私だって26歳になったし、7つ上のまさにぃは33歳。大人以外の、何者でもない。

「まさに、」

 そこまで言いかけてふと言葉を止める。いくら幼馴染といえど、三十路男性相手に“まさにぃ”はいかがなものか。それにまさにぃは“本部長”らしい。……本部長かぁ。まさにぃ、本部長になってたんだ。あぁ、やっぱりまさにぃはボーダーに居た。どうしよう、ものすごく嬉しい。やっと……やっと会えた。

「まさ「これは一体どういうことだ、唐沢さん」

 嬉しさが戸惑いを破って、もう1度焦がれた相手の名を紡ごうとすれば、それを鋭い声色が遮った。思わず息を呑んだのは、まさにぃの顔が怒っている時のそれだったから。

「どうって。私がボーダーに必要だと思ったからスカウトしただけの話ですよ」
「しかし……!」
「なまえちゃんがウチに入ることに、何か大きな問題でも?」
「そ、れは……」

 まさにぃの追撃が止まる。まさにぃが言い淀んだ隙を逃さないといいたげに「では私たちはこれで」と告げて踵を返す唐沢さん。肩を掴まれ、私もまさにぃから背を向けて歩き出す。……まさにぃは私が入隊したこと、あまり歓迎してくれてないみたいだったな。



 その後鬼怒田開発室長と根付対策室長への挨拶も済ませ、一先ずの行事を終わらせた。終わってみればみんな普通に受け入れてくれたなと思う。ブラックリストに載ってるとかじゃなくて良かった。……ただ1人を除けば、穏やかなスタートといえるのに。

「まさにぃ……怒ってたな」

 唐沢さんに案内してもらった食堂。格安で美味しくて、“毎日ここでご飯済ませようかな”なんて思ったのも束の間。一服してくると唐沢さんが席を外して1人になれば、すぐさままさにぃの顔が頭に浮かぶ。唯一の顔見知りなのに、唯一良い顔をしてくれなかった相手。……まさにぃは数年ぶりの再会なんて嬉しくもなんともないのかな。それか、私のことはすっかり忘れてて、正規入隊してない人物だって怒ってるとか。もしそうだとしたら、やっぱり悲しい。10年近く会ってないとはいえ、あんなに一緒に居たのに。

「今良いかい」
「……まさにっ……し、のだ、ほんぶちょう」

 どうぞ、と目線で示せば唐沢さんが座っていた席に腰かけるまさにぃ。どうしよう、いざ目の前に座られると直視なんて出来ない。ここ最近弾むことのなかった心臓がバクバクと音を立てて体中の熱をかき集める。

「久しぶりだな、なまえ」
「おぼえてたんだ……」
「……忘れるわけないだろう。元気にしていたかい?」
「う、うん……! ずっと、元気だったよ」
「そうか」
「……っ」

 笑ったかお、変わらない。変わってない。
 見た目がどれだけ変わろうとも、どれだけ落ち着いた大人の雰囲気になったとしても、まさにぃはやっぱりまさにぃだ。少しだけ困ったように笑うその顔は、記憶の中のまさにぃそのものだ。どうしよう、私、泣きそうだ。

「まさにぃは凄いね。こんなに大きな機関の本部長になってるだなんて。そりゃ忙しいわけだ」
「まぁ、な」
「ずっとボーダーで活動してたんだね。……そうだ、最上さんって今どこに居るの?」
「最上さんは亡くなった」
「……え」

 嬉しさの滲む空間にピリ、と張り詰めた空気が流れ込む。
 まさにぃが真剣な顔で私を見つめてくるから、じわりと掌に汗が浮かぶ。机の下で両手をギュッと握りしめ固唾を呑めば「私たちが居るここは、そういう場所だ。市民を守る為に自らの命を戦線に差し出す必要がある」と事実を述べるまさにぃ。

「なまえは営業補佐と聞いているし、戦前に出ることはないだろう。ただ今後、“ボーダーで知り合った人が戦いで命を落とす”そういう経験はなまえにも訪れる」
「……それはまさにぃの可能性もあるってことだよね」

 大規模侵攻の時、まさにぃは私のことを助けてくれた。近界民に立ち向かってゆく姿がこの目に焼き付いている。それはつまり、まさにぃが戦場で戦う人を意味する。自らの命を戦線に捧げこの街を守る人だってこと。

「……それでもなまえはここに居たいと思うか?」
「私は……」

 私は、まさにぃが死んじゃうのは嫌だ。出来ることならそんなこと想像もしたくない。だけど、それ以上にその場に居られないことのが嫌だと思う。
 きっとまさにぃは私が知らない間にたくさん親しい人との別れを繰り返してきたのだろう。まさにぃがそんな辛い思いをしてきたなんて、全然知らなかった。……その時のことを思えば、きりきりと胸が痛む。

「私は、それでもボーダーに入りたい」
「……そうか」

 知らない間に大切な人が辛い思いをしてるだなんて、嫌だ。自分の決意を告げれば、まさにぃは少しだけ複雑そうな表情を浮かべたけど、緩やかに上がった口角には優しさが溢れていたから。……私はここに来て良かったと思ってしまうのだ。




- ナノ -