Carpe Diem


「おはよう、なまえちゃん。体調はどうだい?」
「大変……たいっへん、申し訳ございませんでした……!」

 家に着いて取り急ぎ連絡をかけた相手は、こちらの謝罪をカラっとした笑いで吹き飛ばす。「お酒が残る体質じゃなくてよかった」とホッとしたように告げる口調は、紛れもなく唐沢さんが昨日私の傍に居たことを証明している。

「今日の営業、同行出来ず……」
「ん、気にしないで。今日の相手、ちょっと厄介な人だったし。丁度良いと思ってね」
「……特別休暇まで頂いて……。もう二度とお酒は飲みません……!」
「そうかい? 今にして思えば、お酒を入れたなまえちゃんをもう1回見たい気もするけどね」

 その言葉に冗談と分かっていても、何か失礼なことを言っただろうか? と頭を悩ませてしまうのはやらかした側の宿命というもの。唐沢さんは私の思考回路も全部分かった上でわざと言ってるって分かってるけど、言い返すなんて絶対出来ない。このやり取りは全て唐沢さんの手のひらで転がされていることだ。

「あの、唐沢さんって今日の午後はボーダー戻りでしたよね?」
「その予定だよ」
「良かった。後で伺わせて下さい」
「せっかくの休みなんだから、ゆっくりしときなよ。この電話だけでじゅうぶんだよ」
「……忍田本部長にも話したいことがありまして」
「そっか、分かった。じゃあそれの後おいで」
「はい。じゃあまた後で」

 電話を切って深呼吸を1つ。
 この選択が。今からしようとしていることが。どこに繋がっているのか分からなくて、怖くてどうしようもないけど。だからって何もしないのは、誰とも対等になれないことだって思うから。見えない世界で必死に選ぶしかない。それが、私の望む強さに繋がれば良いと願いながら。



「ま、忍田本部長」
「なまえ? どうした」
「仕事中にごめんなさい。どうしても話したくて」

 本部長室をノックして、声をかければ向こうからドアが開かれた。数日ぶりにぶつかる視線の先に、心配そうに揺らぐ瞳が浮かんでいる。

「入って」
「失礼します」

 綺麗に整理された部屋は、小綺麗を通り越して殺風景とすら思える。チラリと覗いた机には必要最低限の書類とペットボトルの水が置いてあって、思わず口角が緩む。コーヒーじゃない所、まさにぃっぽいなぁ。

「すまない、水しかないんだ。何か買ってこよう」
「ううん。話したらすぐに帰るから、大丈夫」
「……何かあったのか? もしかして仕事で、」
「違うよ。そういうのじゃない」
「じゃあ……」

 まさにぃはいつでも私のことを心配してくれる。……だけどそれは、私が望む関係性じゃない。守られるばかりは嫌だ。

「私、まさにぃが好き」
「……なまえ、」
「ずっと。ずっと大好きだった。まさにぃと会えなかった間も、こうして話してる間も。大好き」
「……、」

 心配そうに揺れていた瞳が大きく見開かれる。だけどすぐさま冷静さを取り戻したまさにぃは、私の言葉を遮ることなく続きを待つ体制に入る。

「まさにぃの困ったように笑う顔が好き。優しい所が好き。やんちゃな所が好き。格好良い所が好き。強い所が好き。……全部好きって言いたい」

 まさにぃの全部、どんな所も好きだって言いたい。良い所だけじゃなくて、直して欲しい所も、悪い所も、何もかもを好きだと受け入れたい。

「私は、私がまさにぃの弱さになるのは嫌」
「……なまえ」
「迅くんから大規模侵攻のこと聞いた」
「……!」
「まさにぃは戦闘の軍事指揮を執って、苦くて難しい選択をたくさん迫られるんだと思う」
「……それが俺の仕事だから」
「私、まさにぃのことを支えられるくらい強くなりたい。だから、戦えなくても他の方法で強くなってみせる」
「他の方法……?」
「まさにぃ。私と取引しない?」
「取引……って?」
「知ってる? まさにぃ。取引っていうのは金銭のことだけじゃないんだよ」
「……?」

 まさにぃの顔が不思議そうな顔つきになっているのが可笑しくて、ちょっとだけ肩の力が抜ける。この手の話においては私の方がまさにぃより上手だと少し嬉しくもなる。

「まさにぃの弱い所も支えられるくらい強くなれたら、もう1回告白をするチャンスをくれない?」

 交渉内容を明かせば、それまで聞き役に徹していたまさにぃの口から深い息が吐きだされた。それは不穏なものじゃなく、どこか楽し気な雰囲気を纏って。

「俺は少し思い違いをしていたようだ」
「え?」
「なまえのことを“守るべき存在”とずっと思っていた」
「まさにぃ?」
「なまえのボーダー入隊を拒み続けたのは俺なんだ」
「拒んだって……」
「城戸さんに頼んで、なまえが入隊試験を受ける度に落とし続けた」
「なんで……、」

 まさにぃが告げる言葉はどれも信じがたいものだけど、全部まさにぃが私のことを想っての行為だってことは分かる。だけど、まさにぃの本当の気持ちが知りたいから、今度は私が聞き役に徹する番。

「小さい頃、芝滑りをしたの覚えてるか?」
「覚えてるよ。まさにぃの後を追いかけて私がすっ転んだんだよね」
「あの時、なまえが有刺鉄線にぶつかって右の脇腹を怪我したんだ」
「今となっては笑い話だけどね。今でも脇腹に傷あるし、思い出す度に笑えちゃう」
「俺はその時なまえがわんわん泣くのを見て、“なまえを絶対に守る”と誓ったんだ」
「え、そうだったの……?」
「ボーダーに入って、市民を守ることを信条としたのはそこからだ」
「そ、うだったんだ……」

 あの思い出がまさかまさにぃの中でそんな風に根付いてたなんて、全然知らなかった。あれが……私が、まさにぃの今のルーツってこと?

「そのことに囚われ過ぎて、なまえの気持ちを無視してしまっていたようだ」
「それは違うよ。まさにぃはいつだって私のことを想ってくれてる」
「正直言うと、なまえのことは妹のような存在だと思っていた」
「……うん、」
「ただ、なまえの気持ちはなんとなく知っていたし、それを拒みたいというわけでもない」
「……うん」
「俺も今のなまえの姿をきちんと見つめて、向き合ってみようと思う」
「ありがとう、まさにぃ」
「……俺も、もう1度なまえに告白してもらえるような男で居続けないとだな」
「うん……! じゃあ、取引成功ってことで良いかな?」
「あぁ、そうだな」

 この選択の先に赤い糸があるかは分からないけれど。きっと、後悔はないはずだ。



「失礼します」
「お疲れ様。お腹、空いたんじゃない?」
「へへ……結構大きい取引交わしてきたんで」
「良かったら一緒に食べよう」
「これ……」

 唐沢さんがちらつかせるのはうなぎ釜めし。……唐沢さん、全部分かってたんだ。

「その様子だとうまくいったみたいだね?」
「忍田本部長に告白してきました」
「……そうか」

 特に驚きもせず、ソファに腰掛け釜めしを並べる唐沢さん。その反対側に腰掛けて「それで、次を取り付けました」と報告を続ければ「次?」と興味深そうに語尾が上がる唐沢さんの声。

「私がまさにぃを支えられるくらい強くなれたら、その時にもう1度告白をするチャンスを下さいって。そういう取引内容でした」
「なるほど」
「私が望む関係性になるまでは、事を急ぐのは良くないですしね」
「さすがなまえちゃん。俺の部下なだけあるよ」
「唐沢さんのおかげで私にも武器があるって知りましたから」
「こちらの条件が整うまで交渉を引っ張るというのは、決してアンフェアではないからね」
「ですね」

 うなぎ釜めしを頬張り、その美味しさに頬を緩ませれば唐沢さんの目も緩やかに垂れる。唐沢さんがうなぎ釜めしを食べる理由、なんとなく分かるな。これはご褒美や激励に持ってこいの味だ。

「赤い糸を結ぶのは自分自身ですし」
「赤い糸?」
「迅くんと話した時言われたんです。例え予知が出来たとしても、選択肢はたくさんあるし、それを選ぶのは自分自身だって」
「なるほど。結局どう転ぶかは誰にも分からないって訳だ」
「そうですね。私自身でさえ私の未来は分かりません。だけど、その選択に責任を持てるくらいには強くなりたいです」

 そう言って口いっぱいにご飯を頬張れば、「やっぱりなまえちゃんは強いよ」と優しく受け入れてくれる唐沢さん。私のことをずっとそう言って受け入れ続けてくれたのは他の誰でもない、唐沢さんただ1人だ。

「唐沢さん、本当にありがとうございます。色々と」
「俺? 俺は何にもしてないよ」
「いいえ。私は唐沢さんが居なかったらここに居ないし、まさにぃと向き合うことも出来なかったし、私に武器があることも知らないままでした。きっと、この先もずっとつまらないと感じる毎日を過ごしていたと思います」
「なんだか照れるね」

 鼻を啜ってお茶を飲む唐沢さんの耳はほんのり赤くなっている。唐沢さんが照れるなんて珍しいと思ったのも束の間で「なまえちゃんの理論でいけば、もしかしたら俺となまえちゃんが結ばれる未来もあるかもしれないってことか」とこちらが赤面してしまうような言葉を切り返された。

「あ、ごめん。これってセクハラかな?」
「い、いえ……っ、セクハラだとは思わないです……! けど……じょ、冗談、ですよね?」
「……さぁ? 俺は悪の組織に居たような悪い大人だからね。本音をそう容易く見せはしないさ」

 ラグビーのフェア精神は……!? というツッコミを入れる前に「誰かを愛するなんて、俺のガラじゃないけど。それでもなまえちゃんが俺を選んでくれる時が来たら、俺はそれに喜んで応えよう」と告げられた声色がどこか真剣さを帯びている気がしたから、そっと口を噤む。

「どうなるか私にも分かりませんが……。もし、その未来が訪れた時はよろしくお願いします」
「……こちらこそ」

 私の赤い糸は、きっと。どこかの誰かと繋がっている。




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