無垢を食んで育つ痛み

 治の読み通りもうひと山あったピークも無事に終えることができた。ただ、閉店準備はいつもより遅くなってしまったので、高校生である森川さんと立川さんを帰宅させて2人で行うことにした。

「付き合わせてゴメンな」

 23時近くなった頃、バックヤードで治が謝罪を口にする。店の準備は終わって、残るは売上管理のみ。「最後まで付き合うで」と言ったのは私のワガママなのに。治はこうして優しさを覗かせるのだ。

「次の賄いの為や」

 そこかい、とパソコンと睨めっこしながら笑う治。その真剣な顔が見れるだけでここに居る意味がある。なんて本音は言えるはずもなく。私も曖昧に口角を上げるだけに留め、やかんでお湯を沸かしマグカップにお茶を淹れる。治はコーヒーよりも緑茶の感じがする。……なんとなくだけれど。

「ありがとう。この歳になったらお茶が沁みるわ」
「年寄りか」

 23歳の若モンが――そう笑いかけて思いだすのは侑の顔。

−する。俺らもうそんな歳やで?

「ああああ!」
「! な、ナニ……?」
「ゴメン。なんでもない」
「深夜テンションか?」
「そんなとこや」

 せっかく治と2人きりだというのに。1度浮かんだ顔は勝手に侵食してくる。治のことを思いながら淹れたこの緑茶も、侑に置かれた自宅のプロテインが頭に浮かび、消されてゆく。

 私には治だけを想い、治にだけ想いを寄せる資格はないのだ。



「終わった!」
「お疲れ。パソコン作業も慣れたモンやなぁ」
「店長なんで」
「ドヤッ、やあらへん」

 背伸びをする治に上着を渡し、バックヤードの照明を落とす。暗がりの中、治と私のマグカップをシンクに置いた時、私の携帯から着信が鳴った。

「出らんでええの?」
「……ちょっとゴメンな」

 着信相手を恨めしく思いながら電話をとると、「今どこ?」と無遠慮な声が響く。

「今、バイトが終わったとこ」
「家行くわ」
「今日はちょっと。また次にしよ?」
「無理、今日」
「埋め合わせはするから」

 治をチラチラと見ながら電話を続ける。着信相手を治に知られたくない。一刻も早く終わらせようとしているのに、侑はちっとも察してくれない。

「その埋め合わせと、今日もや」
「いや埋め合わせの意味」

 治と似たようなボケをかます侑にツッコむのは高校からの習慣。それは最早無意識。無意識な行為をしている時、人は他の行為も無意識になる。

「熱っ、」

 さっき使ったやかんが目につき、それに触れた瞬間思わず声が出た。ビックリした手は反射的に携帯を投げ出し、近くにあった調味料入れに激突した。

「え、なまえ!?」
「……どないしよ」

 突如連続して起こった大きな音に治もビックリして、目の前で起こった状況に目を丸くさせた。さっきまで静かだった空間が醤油まみれだ。呆然と立っていると、「とりあえず冷やせ」と治が手をシンクに運んでくれた。

「水ぶくれにならんとええけど」
「ごめん」
「痛む?」
「それは大丈夫。……けど醤油、」
「そんなん補充すればええ。それよりもなまえの服やな」
「服……」

 醤油はほぼ私にかかった。これは自業自得だし、仕方がない。

「制服着て帰るわ」
「Tシャツやで? 外寒いやろ」
「電車の中は暖かい」
「その髪で乗るん、まぁまぁ勇気要んで」
「配達車、」
「私的利用禁止」
「そう、よな」

 詰んだ。……正直言うと、醤油まみれの髪の毛と洋服で電車に乗るのは例え1本の道のりでもキツい。

「俺ん家来るか」
「え?」
「徒歩で帰れるし。手当も早く出来るやん」
「いやでも、」
「一刻を争う事態や。……あかん?」
「っ、」

 大袈裟だ。でも、そんな顔して言われると何も言い返せない。私が治のことを思って緑茶を淹れなければ。侑の電話を取らなければ。不注意でやかんに手を触れなければ。

 治に心配をかけずに済んだ。でも、治に心配して貰えた。治に手を握って貰えた。――治の家に行けることになった。

「ほんなら行こか」
「……ごめんなさい」

 自分勝手なのは私もだ。治、ごめんな。

「謝らんでええって」

 そう笑ってくれる治に、私はこんなにも自分勝手な感情で応えてる。

「そういえば携帯。大丈夫か?」

 ハッとした表情で治に問われ、そこでようやく携帯――侑の存在を思い出す。急いで携帯を拾い上げ、慌てて耳に押し当てると「お愉しみか?」と嘲笑うような声で問われた。

「っ!」

 私の中にある卑しさを探り当てられたような気がしてカっと熱くなる体。勢いに任せて通話を切り、襲い来る羞恥心を携帯と共に胸に押し当てていると「相手、大丈夫やろか?」と治の声が現実に呼び戻す。

「落とした時通話も切れたみたい。後でライン入れとく」
「相手もビックリしたやろな」
「謝らんとあかんな」

 取り繕った笑みを張り付け立ち上がろうとした時、私の肩に優しい重みがかかった。その正体を目にした途端、私の顔に本気の焦りが滲む。

「いやさすがにコレは……!」
「うん。俺も寒い。せやからはよ行こ」

 それは遠回しだけれど有無を言わせない方法で。私は治の寒さを早くなくす為にも、治の上着を羽織って治の家へと歩みを向けることになった。


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