枯れた春を咲かせたい
朝、目が覚めたら侑はもう居なかった。霞む視界を瞬かせ、何度目かの瞬きで景色を捉えた時、1番に目が行ったのは散らかった衣類たち。
「……なんも変わってへん」
その中から自分の服を手繰り寄せ身に纏い、残りを洗濯機に入れ込みカーテンを開ける。テーブルに置かれた飲みかけのペットボトルを持ち、携帯の電源を入れると“ちゃんと帰れた?”と治からのラインが届いていたことを知る。
寝落ちしていたと偽り、返事の続きを打ち込みながら口付けるペットボトル。そこにほぼ水はなく、眉根を寄せてくしゃりと潰してゴミへと化す。
侑とセックスをした所で何も変わらない。侑の様子はちょっとだけ違う気がしたけれど、こうして好き勝手部屋を荒らされる部分も何も変わっていない。結局、何も変われやしないのだ。また1つ、罪悪感が増えるだけ。
それらを抱えながら、治への想いも抱え続けてしまう。そういう、変わらない毎日が続くだけ。バイトが休みであることを残念に思う気持ちだって変わらない。
こうしてまた、快楽と罪悪を日常に組み込み治を想いながら生きていくのだ。
「なまえ、そろそろ正式にウチで働かへん?」
「……え」
女性記者とのことがあってから数日。治も特に変わった様子を見せず、いつもと変わらない毎日を過ごしていた。そんな普遍的な日々を過ごしていたというのに、治から出た言葉は特異性を持ったもので。
「正社員として。どう?」
「……えっと、」
「他に就きたい職業あるんやったら無理にとは言わへんけど」
「それはない、けど……ええんやろか?」
「ん?」
「私なんかが、」
戸惑いを見せる私に治は柔らかく笑って「なまえ以外に居らへんよ」と言ってくれる。……治にそんなことを言われて、嬉しくないハズがない。治に必要とされて、断れる程強い心は私にはない。
「よろしくお願いします」
「おん。ほな手続き進めさせて貰うな」
こんな私が治の側に居続けている。治に本当の私がバレた時、私の人生はそこで終わりを告げる。その時が来るのが怖くて仕方ないのに、こうして治の側に居ることを選び続けてしまう。そうすればそうする程恐怖が膨らんでいくというのに。私も侑と同じくらい罪を重ね続ける。
「そんでな。正社員になるなまえにお願いがあんねやけど」
「?」
仕事に戻ろうとした私に、治がなおも言葉を続ける。そうして立ち止まった私を見て「新商品。一緒に考えてくれへん?」と願いの中身を明かす。
「新商品……?」
「うん。今あるん、大体がメジャーなもんばっかやし。ちょっと変わりダネも欲しいなぁと思うて」
「はぁ」
「せやから次の店休日、付き合うてくれへん?」
「それはええけど、」
「ほんま!? ありがとう。助かるわ」
承諾すると、また嬉しそうな笑みを浮かべて仕事に戻る治。休みの日でも食のことて。……本当に治は食べることが好きで、そこに真っ直ぐだ。女性記者の記事は本当に載ることはなかったけど、そんなのも気にしてないみたい。
治は本当にあの記事が嫌だったのだろう。……ということは、あの女の人に対する浮ついた気持ちも、そこまで本気のものではないのだろうか。
あのキスに傷付き、忘れたいと願い侑に縋った。それでも忘れられずにいるあの傷は、治のこういう何気ない態度が簡単に治療してみせるから不思議なものだ。
「新商品……か。なんがええやろ」
治が喜ぶこと。それは、このお店がもっと色んな人に広まること。おにぎりの美味しさがお客さんに伝わること。
侑との関係も、今私が甘んじている状況も。ちゃんとしないといけないことなのに。思考を巡らすのはおにぎりの具材のことになってしまう。
「キムチ……あ、でも匂いがなぁ」
「今から考えてくれるんは嬉しいけど。今は仕事に集中してな」
「あっ、ごめん」
店長として治から窘められ、目の前の仕事へと意識を向ける。……今度、あの女の人とのこと訊いてみてもいいだろうか。もし私が懸念したことがただの思い過ごしなのだとしたら。
それに空回りして行った取り返しのつかない行為を悔やむよりも、その事実を喜んでしまうのだろう。
「なまえ、顔。どっか飛んどう」
「あっ、ごめん」
「頬抓ったろか?」
「ええって!」
顔を覗き込まれて早まる鼓動も。慌てた私を見て楽しそうに笑う治も。どれだけの罪を重ねても手放せない大切なものだ。