無垢が産んだ罪

 治から連絡が入ったのはそれから1時間程が経った時だった。暗くなってきたこともあり、“なまえん家近くまで行こか?”という治の申し出を即座に断った。……万が一家に来るだなんてことに、億が一ないとは分かっているけれど。もしなったら。それを考えると体が震えた。

 そういう思いで当初の予定通り2丁目のコンビニを押し通し、テレビを消してリップを塗り直して鏡で全身チェックして外へと飛び出す。1日に2回も治と会えるだなんて。今日は凄く良い日だ。



 二十歳を越した人間が、人目を憚らずスキップだなんて出来ない。だけど、今の気分だと抑えきれそうもないこのテンション。それをどうにか鼻歌に昇華させながら歩く街道。こうして治のことを考えながら歩いていると、本気で自分が清廉で身綺麗な人になれた気がしてしまう。

 それはただの勘違いであるということ。それを思い知れといわれたかのような電撃が脳天から打ち込まれた。

「……え、」

 コンビニ間近になった時、高級そうなホテルから出て来たのは治と女性記者。その姿を認識するが早いか、女性記者の唇が治に近寄るが早いか。どっちかなんて私には分からない。
 
 ――治がキスしていた。それだけが事実。

 痺れて動けない私を置き去りにして、女性記者が立ち去って行く。残された治は表情を動かすこともなく、押し付けられた唇をぐいっと拭って歩いて行った。

−する。俺らもうそんな歳やで?

 私と治は恋人じゃない。お互い誰とも付き合ってない。だから、私が侑としていることも、治が女性記者としたことも、咎められることじゃない。だけど、こんなにも心を絞めつける。

 私たちはもう、真っ白なんかじゃない。



「……ごめん、遅くなった」
「んーん。俺も今来たとこ」
「これ。借りっぱなしでごめん」
「わざわざすまんな」
「……じゃ、」
「なまえ」

 さっきまで浮ついていた気持ちは死に、今すぐ帰って1人になりたいと願っている。そんな時に限って治に呼び止められ、ぎゅっと痛む心。けれど、どうしたって治は私の好きな人。その人に呼び止められると立ち止まってしまうのはもはや本能。

「……記事、なくなってしもうた」
「え?」
「あの記事、多分パァになる」
「な、んで」

 あの記事とはさっきの女性が書く記事のことだ。わざわざ追加取材と称してまで治を呼びつけたというのに。その戸惑いを見抜いた治が少しだけ眉を下げて「色々、あってな」と寂しそうに笑う。

「……治がそれでええんやったら、ええんちゃう」
「そやな……うん。ありがとうなまえ。送って帰る?」
「ううん、平気。ほんなら」
「おん。気ぃ付けてな」

 それ以上は無理だった。これ以上治の側に居たら詰め寄りそうで怖くなった。色々ってなに? キスのこと? それともそれ以上のこと? 治ももうそういう歳やから、私の知らん所でそういうことしたん? なぁ、治。私以外のモノになんかならんで。

 自分がおかしくなりそうだ。資格のない嫉妬心や独占欲が渦巻いて息が苦しい。こんな感情、捨ててしまいたい。失くしてしまいたい。どうしたらいい? どうしたら忘れられる?

「珍しいな、なまえから電話やなんて」
「私の家、来て」
「……分かった」

 自分勝手な感情がここでもまた1つ。そうして目の前の感情を捨てる為に、私はまた1つ言い逃れの出来ない罪悪感を抱えるのだ。



「何かあったん?」
「……なんも訊かんといて」
「あ、今日俺の特集あってんけど。見た?」
「見てへん」

 ありえへん、と眉根を寄せているけれど怒っている様子は見えない。高揚すら見てとれるその顔は下から私をじっと見つめている。それらを無視して押し付ける唇はピリピリと痛い。こうして自分から侑を求めるのは初めてだ。

「なぁ、」
「黙って」

 侑が何かを言おうとする度に口を付けて塞ぐ。侑が初めて私を襲った時と同じ。もしかするとあの時の侑も、こうして言いたくても言えない気持ちがあったのだろうか。……そんなの、もう今更どうしようもないことだけれど。

「治の代わり、したってもええよ」
「……っ、そんなら……してみせてよ」

 部屋に上がり込んできた侑を見るなりベッドに押し倒し、そのまま何度も口付けをして侑の言葉を塞いだというのに。侑は息切れすることもなく私の心臓を抉りつけた。……どうして、今1番言って欲しくないことを言うんだろう。……どうして、1番言って欲しいことを言えるんだろう。

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