そろそろさよなら

 プルプル、もしくはブーン。

 正臣のスマホはいつもうるさい。大人しい時がないといっても良いくらい。それだけ、正臣が仕事人間――という訳でもなく。

「ごめん、取引先から」
「うん、行ってらっしゃい」

 定時後のこんな時間にかけてくるとは、一体どれだけの緊急事案なんだろう。スッとスマホを裏返してカウンターから外す正臣を問い質してみても、納得の行く答えなんてどうせ貰えない。

「お手洗いに」

 バーテンダーに声をかけ、私もカウンターから外す。正臣行きつけのこのバーには仕事終わりのデートで頻繁に立ち寄っている。ディナーをして、このバーに寄って、そのまま正臣の家。それが私たちの決められたデートコース。
 その決められた時間の中で、正臣がスマホに時間を取られなかったことは今まで1度もない。少なくとも、私の記憶にはない。

「――あぁ。分かってる。次はちゃんと行くから」

 手洗いを終え、ついでに煙草でも吸って行こうかと手洗い場を出ると店の外側からくぐもった、控えめな声が聞こえ足を止める。

「……! 真矢。居たんだ」
「ええ。一服しようかと思って、今来たとこよ」
「そうか。じゃ、俺も一服しようかな」

 外に居た正臣がドアを開け、そのまま店の外側でドアマン役を買って出る。正臣はこういう気遣いが細やかにできる男だ。そして顔立ちもとても端正。営業に持ってこいの顔立ちだ。

「真矢が煙草吸ってる姿、本当に様になるよな」

 夜空に向かって白い息をくゆらす。正臣は私が煙草を吸う姿が好きだとよく口にする。

――本当は煙草なんて吸わない女の子のが好きなくせに

 その本音は煙草と共にすり潰し、「何言ってんのよ」と口元には軽い微笑みを浮かべそっと正臣を見つめてみる。

――ほら、私の顔なんて見てないじゃない

 その本音も灰皿に押し付けられる煙草をじっと見据えて潰れていくのを見届ける。正臣とは同じ時期に入社した、いわば同期だ。初めから葛原正臣という人物は周囲とは違うオーラを放っていたし、会社も彼に期待をかけた。そして、正臣はその期待に応えるようにメキメキと実力を発揮し、“営業T課といえば葛原正臣”と連想されるほどだ。

 正臣は入社当初から女性にモテた。先輩社員も同期も、取引先も。正臣と接したことのある女性で、正臣に好意を抱かない女性なんて居ないんじゃないだろうか。そう思えるくらいには。

 そんな正臣がどうして私を選んだのか。その答えは案外簡単だ。

「真矢、次の企画で責任者任されるんだって? すげぇよなぁ。さすが真矢」
「経験値を積むためで、形だけのものよ」

 私が、正臣に負けないくらいには仕事が出来る女だから。そして、正臣ほどではないけれど顔立ちに関しては褒められる事が多い女だから。それだけの理由。

 どちらにおいても他人からの評価ではあるけれど、そういって褒めて貰えることを不快には思わないし、心地の良い言葉として受け取っている。ありがたいことだとも。

「あ、そうだ。来週の金曜なんだけどさ、今さっき電話来た取引先の人とご飯食べ行くことになった」
「じゃあ来週は会えないわね」
「ごめんな」
「仕事なら仕方ないでしょ。謝らないで」
「ありがとう、真矢。あ、俺、トイレ行ってから戻るから真矢は先に戻っといて」
「うん、分かった」

 紫煙を漂わせながら先に戻るよう伝えてくる正臣に素直に頷いて店内に戻ることにする。

「あ、もしもし? うん、来週、会いに行けるよ。ほんとだって」

 実際には閉めたドアの近くに立ち、少しの間ドアを挟んで正臣の側に居続けた。そうすれば正臣はさっきの電話相手にこうして電話をかけることが分かっていたから……細やかな気遣いが出来るとはいっても、こういう詰めの甘い所、本当に正臣らしい。

「……ラインにしなさいよ、バカ」

 浮気をするのなら、徹底的にしろ。



「ギムレットを」

 ライムの香りがカウンターに広がる。私の気持ちもこれくらい爽やかになれたら良いのに。そんなむしゃくしゃした気持ちを出されたカクテルと共に喉の奥へと押しやる。押しやられた気持ちは結局私の中へ。爽やかなのは口内だけで、喉はキュッと熱いし、胸はもやもやどろどろが溜まっていく。

「同じのを」

 再び同じものを注文した時、1席間隔を開けて座る男性が私にチラリと視線を這わす。……おあいにく様、お酒は強いクチなの。悪かったわね、ばかすか飲んじゃって。

 引きたいのならば引けばいい。八つ当たりを含めた目線で見つめ返すとその男はその隣に座る女性へと視線を戻していく。それでいい。どんな目で私をみようと、どうせあの男とはこれっきりだ。なんとでも、ご自由に。



「真矢」
「ごめん、今日はちょっと……」
「え?」

 あれから少しして戻って来た正臣と何も知らないフリをしながら他愛も会話をし、いつも通り正臣の家に向かい、横たわったベッド。いつも通り私の髪を撫で、耳にかけてくる正臣のその顔を制す。

「さっきバーで飲みすぎちゃって。そういう気分じゃないの。ごめんなさい」
「そっか。……じゃあ、寝るか」
「おやすみなさい」

 いつもならばこういう行為においてもうまく自分の本音を潰せるのに。何故だか今日はそれが出来なくて。お預けをくらった正臣は隠しはしているけれど声が1トーン低くなる。私のおやすみには言葉を返さず、背中で受け止める正臣。こうなるのが嫌で、いつもは見て見ぬフリをするのに。

 何故だか今日はカウンターで目が合ったあの男の目が脳にこびりついたように取れなくて。正臣じゃない別の誰かを思い浮かべながら抱かれるなんて、私には出来ない。

 正臣は浮気相手を抱く時、1度でも私を思い浮かべたことはあるのだろうか。
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