行き場のない愛

「真矢さん」

 何分間か黒尾くんの胸に頭を預ける体制が続いた後、沈黙を破るように黒尾くんが声をあげた。

「確認だけど、真矢さんは今フリーってこと?」
「そうなるわね」

 黒尾くんの手が私の頬に触れてくる。優しく包まれた右の頬は、ドクドクと血流をまわしはじめ、熱っぽい瞳を浮かべる黒尾くんに期待をしている。別れたばかりなのに、と他人からは思われるかもしれない。でも、どれだけ蔑まれても、どれだけ後ろ指を指されても、私は黒尾くんとそうなりたい。

「真矢さん」

 合図のように黒尾くんが私の名前を呼び、それに応えるように瞳を閉じる。

 好き。

 私は、黒尾くんが好きなの。好きよ、黒尾くん。

 心の中でひたすらに叫び続けた。感情が大きすぎて、声に出来ない。だからどうか、唇から私の想いが伝わりますように。

「……ごめん真矢さん。俺、あんだけカッコつけてたくせに超ずりぃやつだね」

 それはあまりにも短すぎる、私の想いを伝えるには浅い、触れるだけの口づけだった。

 瞳の向こうに居る黒尾くんは困ったような、辛そうな顔を浮かべて私を見つめるだけ。手を伸ばそうともしてくれない。まるで見えない透明な壁が私たちの間に立ちはだかっているみたいだ。

 その様子を見て、私は黒尾くんの気持ちに気付いてしまった。

 黒尾くんは私と一歩踏み出すつもりがないのだ。

「……私の方こそ、都合の良いこと考えてごめんなさい。今日は帰るわ」

 黒尾くんと同じような笑みを浮かべて静かに席を立つ。
 黒尾くんは何か言いたそうな素振りをしていたけれど、結局何も言ってくれなかったし、後を追いもしてこなかった。

 そううまい話なんて、どこにも転がってないのよ。それくらい、今まで嫌という程経験してきたじゃない。やっぱり私はバカなのね。……でも、黒尾くん。あなたのことを好きだと思ったこの気持ちは嘘じゃないの。どうしようもないくらい、黒尾くんが好き。

「……好き、好きなのっ、」

 街灯もない夜道でようやく言葉に出来た想いはもうどうしようもなくて。溢れ出る涙に乗せて地面に吐き捨てた。

▽▽▽

※ここから澤村長編の主人公が登場します。
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 年を越し、数ヶ月の月日が流れ、新入社員がまた今年もやってきた。

 正臣のことは葛原と呼ぶようになって、付き合うに至った関係性から全て無かったことにしている。ただの同期で、必要最低限の会話しかしない。そんな距離感を保ちつつ、仕事をやり過ごしていた。

 そして、澤村くんとの関係も変わりなく続いている。葛原はあの時の私の言葉を誰にも広めていないらしい。プライドの高い男だから、言いふらすのに自分のプライドが邪魔をしたのだろう。それはそれで丁度良いことだと胸を撫でおろしている。

「あのっ、澤村先輩、ここなんですが……」
「ん? あぁこの場合は――」
「ありがとうございます!」
「お、おう!」

 それに、澤村くんにもようやく恋が訪れたようだ。みょうじさんを見つめる顔、だらしないわよ。凛々しい顔が台無しだわ。

 心の中で澤村くんを窘めて、そういえば黒尾くんにもそうやって心の中で窘めたことあったっけ、と思い出す。黒尾くんはあの日から忽然と姿を消した。

 出会ったバーに行っても、黒尾くんの本当の行きつけのバーに足を運んでも、その姿はどこにもない。また何事もなかったように飲み友達として関りを持てたら――そう思って何度も何度も足を運び続けたけれど黒尾くんは居ない。まるで猫のように、ふらりと現れてふらりと姿を消した。

 黒尾くんはもう私の前に現れてくれないのかもしれない。そんな思いが頭をよぎり、それが黒尾くんの願いならば受け入れるべきとも思った。でも、私はどうしても諦めきれなくて、黒尾くんを探し続けた。



 みょうじさんが葛原と付き合いだしたと聞いたのはそれから半年が経った頃だった。きっかけはやはり同じ部署に配属されたことだろう。葛原がモテるのは昔から変わらないことだし、葛原に好意を寄せる人物の中にみょうじさんが居て、葛原もみょうじさんを選んだだけの話。

 だけど、葛原の選んだ相手がみょうじさんということに、私は少なからず引っかかりを覚えた。

「澤村くんはもう知ってる?」
「ん、何をだ?」
「葛原の新しい彼女、誰だか」
「あぁ、みょうじだろ。それくらいは俺も知ってるぞ」
「そう。あの……、」

 こういう時、なんて声をかけたらいいのか、うまく思考が言葉に出来なくてもどかしい。前に黒尾くんが必死に慰めてくれた時、私はそんな彼を一蹴したのよね。

「最近は葛原も女性関係静かだったし、今回は大丈夫だろ」
「そうだと良いけど……」
「あぁ、そう信じるしかねぇべ。直野も、変に気負うなよ」
「そうね。……ありがとう、澤村くん」

 励ましたいのに、逆に励まされてしまう。私も駄目ね。あの時黒尾くんに“ヘタ”って言っちゃったこと、謝りたい。ねぇ、黒尾くん今どこに居るの?

 凄く会いたい。私、やっぱり黒尾くんが好きなの。
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