まぼろしまほろば

 話をしようと思っていた矢先に事が起きることを、世の中では先手を打たれたというのだろうか。

 正臣は仕事が出来る。それは今でも変わらない印象。だけど、早いのは仕事の手だけではないらしい。

「直野先輩、私、葛原先輩のこと、本気なんです」
「……あ、そうなの」

 押され気味に反応したのは後輩事務員の圧が凄かっただけじゃなく、正臣が既に(いつからそうだったのかは知らないし、もうどうでもいい)別の女に手を出していたという事実に驚いてしまったからだ。

「直野先輩とお付き合いしてるのは理解しています。でも、このままじゃ私……、」
「あなたの気持ちは分かったわ。1度まさ――葛原と私とで話をさせてちょうだい。それからあなたと葛原とで話せば良いわ」

 私の前で唇を震わせている後輩をやけに冷静な瞳で見つめてしまう。前の既婚者女性は完全に向こうも遊びだった。でも、今目の前に居るこの子は違う。本気で正臣に恋をしている。

――あんなクズ男のどこが良いの? もっといい人そこら中に居るのに

 今となっては本気でそう思えるけれど、私も1度は正臣を愛した身だ。下手なことは言えないし、言う資格もない。それにこの子は彼女が居る相手を本気で好きになってしまって、それが苦しくて、どうしようもなくなってしまって、今私と対峙しているのだ。どれだけの覚悟があればそんな強い行動が出来るのだろう。

 この子は被害者なのだ。それなら、私がどうにか出来る部分はどうにかしてあげたい。そんな思いで未だに震えているその子の肩に手を置いて、そっと声をかけた。

 私と正臣も、もうそろそろ潮時のようだ。



「さっき他のヤツらから聞いたよ。アイツ、真矢のとこに行ったんだって?」
「ええ。涙浮かべて必死に訴えられたわ」
「今回は本当に違うんだ」

 後輩と別れたその足で正臣のもとへと向かい、正臣を呼ぶと逆に腕を掴まれ喫煙室へと連行される。そして到着するなり正臣から話を切り出され、思いの他早く本題へと行くことが出来た。……良かった。もう正臣と2人で話なんて出来ることならしたくないとすら思っていたから。手間が省ける。そういう仕事が早いところ、前は尊敬してた。

「違うってなにが?」
「俺は断ったんだ。真矢が居るからって」
「きちんと断り続けたの? 1度も誘いに乗らなかった?」
「乗って「下手な嘘は吐かない方が身の為よ?」……っ、」

 だけど、こういう詰めの甘さが故に簡単に嘘を吐くところ、今でもやっぱり大嫌い。

「ねぇ。知ってる? 正臣って、今まで浮気がバレた時、1度も謝罪の言葉を口にしてくれてないのよ」
「そ、れは……、」
「それだけじゃない。言い合いになった時も、いつも折り合いを付けるのは私。正臣は1度でも私の為を思って引いてくれたことある? 浮気相手と会ってる時、私の顔を思い浮かべたことある? ないでしょ?」
「っ、「あるとか言わないでよね。あるんだったら今こんなことになってないんだから」
「真矢」
「私のことバカな女だと思ってる? 生憎、私は何度も不安になるようなこと繰り返されて、それでもそんな男を信じる程バカじゃないの」

――でも今なら、その不安を信じて変わることだって出来ると思うけど?

 こういう時、黒尾くんが頭に浮かぶ。

 私は黒尾くんに支えられている。本人にはそんなつもりないかもしれないけれど、私は黒尾くんのことを拠り所のように思っている。そんなことにはもう随分前から気が付いていた。良く読めない瞳をするくせに、近くに寄るとさりげなく受け入れてくれる。そして意外と律儀。顔に似合わず真面目。知らないうちに私の弱さを引き出して、それすらをも受け止めてくれる。

 黒尾くんはそういう人。

「私達、別れましょう」
「真矢っ」
「もう無理よ。これ以上続けられない」

 惰性や情に絆されている部分もあった。でも、もうそれも無理。

「もう正臣のことを見続けられない」
「好きなヤツが出来たのか?……もしかして、澤村か?」
「え?」

 どうして澤村くんが、と言いかけて口を閉じる。私と澤村くんは同期で同じ部署。正臣がそう勘違いするのも無理はない。それに、澤村くんの人柄の良さを買って、正臣よりも澤村くんを評価する人も一定数居る。……もし今後正臣が根も葉もない噂を吹聴するようなことがあっても、澤村くんとなら2人で反論出来る。澤村くんの人柄ならば周りの人も彼を信じようとしてくれるだろう。

「……そうよ。正臣よりも澤村くんのように誠実な人の方がよっぽど魅力を感じるのよ」

 とにかく正臣と別れたかった。ただそれだけだった。その思いで正臣の勘違いに乗った。それが今後澤村くんの人生を左右することになるかもしれないと、その時はそこまで頭が回らなかった。ただただ自分の欲望を消化したかった。

「……そうか。もう良い」

 バタンと喫煙室のドアが乱雑に音を鳴らして閉じられる。
 一生懸命に好きだった、好きでいようとした相手との最後がこれなのかと、少しだけ虚無感が体を襲ったけれど、とにかく私は自由になれた。そのことに胸を撫でおろし、誰も居なくなった喫煙室で煙草を取り出し、火を点けた。

「……バカみたい」

 煙草を持つ手が震えている。喜びがそうさせるのか、悲しみがそうさせるのか、私は分からない。自分の意味の分からなさに乾いた笑いが出る。

「戻ろう」

 それでも私は喫煙室を出る頃にはフリージアの匂いを纏って、強い女として仕事をしなくてはいけない。それが、私の望んだ像なのだから。
- ナノ -