まだ名前をつけかねている

「やあ真矢さん。今日はまた一段とお疲れですね?」

 黒尾くんとは会う約束をしていなくても金曜日にバーに足を向ければ会える仲だった。1週間を乗り越えて体に入れるお酒は美味しいし、黒尾くんには出せる愚痴を聞いて貰えるのが嬉しい。こういうのを花の金曜日というのだろう。

「正臣がね、ようやく既婚者と別れたの」
「……そう、じゃあこれで少しは落ち着けるのかね?」
「さぁどうかしら」

 正臣が既婚者と別れたとしても、前のような関係にはもう戻れない。戻りたくない。

「真矢さんは、周りの体裁の為だけに彼氏さんと別れないの?」
「どういう意味?」
「まだ、彼氏さんに気持ちがある……とか」

 黒尾くんの瞳が探るようにに私の瞳を見る。黒尾くんの黒い瞳に、私の中に正臣に対する気持ちは映っただろうか。

「どう見える?」
「……んー、残念ながら」
「そう。それは良いことだわ」

 首を横に振った黒尾くんに笑う。残念なんて言いながら口元緩んでるじゃない。面白がっちゃって。ほんと、いい趣味してる。

「気持ちは根絶されてるのに彼氏彼女で居続けるなんて、バカよね」
「んん〜……」

 顎を引っ込めて言い淀む黒尾くん。顎、2重顎になってるわよ、ブスよ。やめなさい。そんな思いを込めて自分の顎を触ると黒尾くんの顎も元に戻る。あぁ良かった。折角の端正な顔立ちが。

「絆されてるのかしらね。私も」
「真矢さんはそれで幸せ?」
「幸せ……、ではないわね」
「これから先、幸せになれる予感する?」
「……それは、ない。不安ならある」
「じゃあ俺は応援できねぇな」

 ハッキリと言われた。そうよね、やっぱり。あの時、私が信じた選択肢は間違っていたんだ。

「でも今なら、その不安を信じて変わることだって出来ると思うけど?」
「……そうね。確かに。黒尾くんの言う通りだわ」

 悲しみが体を蝕んだけれど、直ぐに黒尾くんの言葉がそれをせき止めてみせる。自分を信じて、自分の為に動く。私だってマリーゴールドのような強さが欲しい。

「今度、正臣と話してみる」
「おーさすが真矢さん。強いねぇ」
「うふふ、ありがとう。黒尾くんのおかげよ」

 そこまで話して、煙草を吸う為に外に行く。バー自体は禁煙じゃないけれど、煙草の匂いがお酒に移るのが嫌いなのだ。正臣は私の眉根に皺が寄ることにも気付かず店内で吸っていたけれど、黒尾くんは吸わない。

「……煙草嫌いなのかしら」

 黒尾くんが煙草を吸ったらとても様になりそうだけれど。紫煙を漂わせながらぼんやりとそんなことを思った。



「おかえり。……真矢さんってさ、煙草吸った後いっつもいい匂いさせてるよね」
「あぁ、フリージアの匂いかしら」
「フリージア?」

 煙草の匂いが尾を引くのが嫌で、一服したあとは1プッシュだけ吹きかけるようにしている香水。フリージアの匂いを黒尾くんも気に入ってくれたみたいで、なんだか嬉しい。

「花よ。キンモクセイの匂いも好きだけど、フリージアの匂いが1番好きなの」
「へぇ。真矢さんって花好きなんだ」
「そうよ、意外でしょ?」

 “こんな女が花を愛でるなんて”と思うんでしょうと過去の経験を基に黒尾くんの出方を予想していたけれど、黒尾くんは予想通りにはいかなかった。

「いいや、全然。真矢さんは花、似合うよ」
「え?」
「可憐で華やかで儚げなところとか。真矢さんっぽいじゃん」
「……く、黒尾くんって……い、意外と気障なのね」
「あ、照れてる」
「照れてないわよっ!」

 黒尾くんが覗き込むようにして私を見てくるから腕を叩き、それをやめさせる。だって、そんな返しがくるなんて全然思っていなかったんだもの。

「花っていえばさ、俺もやけに頭に残ってる花があんだよな」
「どういうの?」
「なんか……タンポポみたいに黄色くて、でも葉っぱはカエルが乗ってそうな葉をしててツヤツヤしてんの」
「何それ。抽象的過ぎるわ」
「だって俺花とか詳しくねぇもん」
「それで、そんな抽象的にしか覚えてない花をどうして忘れられないの?」
「すっげぇ甘い匂いがすんの、それ」
「甘い、ね」
「けん――幼馴染が良く迷子になるやつでさ」

 急に幼馴染の話に切り替わった黒尾くんの話に、思わず首を傾げたけれど黒尾くんは気にせずお酒を口に運びながら言葉を続ける。その瞳には楽し気な光景が浮かんでいるようなので、私も口は挟まず、黒尾くんの思い出話に寄り添う。

「高校の時部活やってて。色んな所に遠征に行くんだけど、行く先々で幼馴染が迷子になってさ。その度に俺が迎えに行くハメになんのね。で、俺も知らない場所だしさ、1回逆に俺が迷子になったことがあったんだよ。そんで、みんなが俺の元に来てくれるってなって、その場でぼーっと待ってたんだよね。その時、どっかから甘い匂いがすんなぁと思って辿ってみたら、その黄色い花で。……なんか肌寒い季節に、ポツンと1人見知らぬ土地に置かれて俺、実はケッコー寂しかったんだよ。でも、その花が居てくれたからなんつーか、心強かったつーか。俺が知らねぇこの土地にもちゃんと根を張って自生してるんだよな、コイツ強ぇなって。……花ってすげーよな」

 最終着地地点が“花は凄い”というところになることも予想外で、思わず声を上げて笑ってしまう。

「うわ、ヒデー。人の思い出を」
「あはは、ごめんなさい。黒尾くんと花っていう組み合わせが……なんだかちょっと」
「ハァ? 俺だって花を愛でる心くらいありますぅ」
「ごめんなさい……ふっ、ふふっ。黒尾くんは……そうね……薔薇とか、良いんじゃないかしら?」
「今脳内で俺にスーツ着せたでしょ?」
「あらどうして分かったの?」
「会社で散々言われんだよ。ホスト経験あるだろ? って。ねぇっつーの」
「黒尾くん、会社でもそう思われてるのね」
「“も”ってどういうイミ」

 花の話題で2人でここまで盛り上がれるなんて。これも予想外。

――花は凄い。
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