魔法の呪文

 洋子と別れた後、白米をもう1杯だけおかわりしてしまった。そうでもしないと溢れ出てくる溜息で窒息しそうだったから。それでも少し食べ過ぎてしまったかもしれない。……今日の夕食を控えめにするか。あぁ、今日は正臣さんと会えたらディナーしようって言ってたのになぁ。

「オメデタ、じゃ無さそうだな?」
「……す、すみません」

 食堂を出て営業部がある階までエレベーターで戻っている時。後ろに居た人物からそう声をかけられて、初めて私が無意識のうちにお腹を撫でながら溜息を吐いていた事に気が付く。

「澤村くん。今のセクハラよ」
「そうなのか!? すまん。そういう意味じゃ無かったんだけど……」

 隣に居た女性に窘められ、慌てて私に謝ってくる体格の良い男性社員は澤村先輩。私が新入社員時に各部署を周った際にマーケティング部の指導係として付いてくれた先輩社員だ。それがキッカケで部署が違った今でもこうして顔を合わせる度に声をかけてくれる、優しい先輩である。

「はい。大丈夫です。私が紛らわしかったですね。すみません。食堂で少し食べ過ぎてしまって」
「さっき、豪快に飯食ってたもんな?」

 澤村先輩が私に悪戯な顔つきで笑いかけてくる。見られてた……! 誰も見てないと思ってたのに……。どうしよう、恥ずかしい。

「良い食いっぷりだったから、こっちも見てて気持ち良かったぞ」
「お、お恥ずかしい限りです……」
「なんだ、もしかしてそれで食い過ぎた事を後悔してんのか?」
「ええっと……」
「澤村くん。今度は失礼よ」

 そう言って澤村先輩を窘める様にして間に入ってくれるのは、澤村先輩と同期の直野真矢先輩。澤村先輩と同じマーケティング部所属で、直野先輩はバリバリのキャリアウーマンだ。私がマーケティング部に研修で行った時も直野先輩の仕事の捌き方は本当に凄かった。正臣さんが営業部のエースならば、直野先輩はマーティング部のエースだ。

「おっと、すまん。ごめんな、みょうじ」
「いえ、大丈夫です。澤村先輩に悪意が無い事は知ってますから」
「みょうじさんも、あまり一目に付く様な場所で溜息なんか吐くものじゃ無いわ。こっちまで気が滅入っちゃう」

 私は正直言って直野先輩が苦手だ。こうして物事をズバッと言い切る所が怖いと思う。そして、とても美人。直野先輩が放つクールな雰囲気も相まって、私にとっては近寄り難い人物だ。……何より、直野先輩は昔正臣さんと付き合っていたという噂がある。

「……はい、すみません」

 そんな直野先輩が怖くて、今もまともに目すら合わせられずに俯いてしまう。

「まぁまぁ。みょうじだって色々抱えてるんだろ。何かあったらいつでも声かけろよ? メシでも食いに連れて行ってやるから」

 直野先輩の言葉にノックダウンを喰らった私を見て、澤村先輩がすかさず間を取り持ってくれる。そして頭を掻きながらそんな言葉で私を労ってくれる。澤村先輩はどこかお父さんみたいだ。とっても優しくて、尊敬できる。

「ちょっと、どうして澤村くんが私を宥めるのよ。元はと言えば澤村くんが悪いんじゃない」
「あー、はいはい。だな。悪い悪い。んじゃ、みょうじ。午後も頑張るべー!」
「はい。では、失礼します」

 2人が私の後ろでそんな言い合いを始めた頃に、私の目的階へとエレベーターが到着する。そのタイミングで澤村先輩が私に声を掛けてくれ、挨拶をしながら目的階へと足を踏み出すとエレベーターの中で澤村先輩が歯を見せながら片手を上げて応えてくれる。そしてドアが閉まりきる少し前に澤村先輩と直野先輩が再び言い合いを始めるのが覗き見えて、思わずふっと笑いが零れてしまった。

「……頑張るべ」

 口に出したそれは澤村先輩が言った発音に比べると少し変な発音になったけれど。私の心を少し軽くしてくれる、魔法の呪文みたいだ。

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