ifが壊れる音がした

「……何かあったら直ぐに連絡する事。良いわね?」
「はい。今日1日、色々とありがとうございました」

 車から降りた後も、尚も心配そうな表情を浮かべていた真矢先輩を見送り、正臣さんのマンションを見上げる。カフェを出た時に送ったラインは未読状態。家に居るのかも分からないけれど。もし居なかったら帰ってくるまで待てば良い。大丈夫。私には澤村先輩も、真矢先輩も居る。……それに、私の不安がただの杞憂である可能性だってある。大丈夫。事態は最悪なんかじゃ無い。

「……頑張るべ」

 小さく、私にだけ聞こえる声で呪文を唱えて、正臣さんの部屋番号を押す。呼び出しを押した後に響くインターホンの音。暫くの間。その静かな時間は私の心臓だけが音を鳴らしている様に思えた。

「居ないか……」

 暫く待ってみても、正臣さんからの応答は無い。やっぱり何処かへ出かけているらしい。スマホを出して着信をかけてみても出てくれない。……帰ってくるまで待とう。今日、今、覚悟が出来ている時じゃ無いと駄目だ。……大丈夫。大丈夫。

「頑張るべ……」



「みょうじ?」
「澤村先輩! どうしてここに?」
「直ぐそこの体育館でバレーしてたんだよ」
「そうなんですね! いつもあそこで?」
「おう。ここ、俺が昨日話したライバルの地元でな。その伝手で良く借りてんだ」
「なるほど……!」

 エントランスにじっと居座るのもなんだか肩身が狭くて、待機場所をマンション前へと変えて待っていると、昨日ぶりの澤村先輩に出くわす。先輩、いつもあそこの体育館を使ってたんだ。もしかしたら何度かすれ違ってたりするのかな。

「にしてもみょうじ、お前今日直野と一緒だったんじゃないのか?」
「はい。さっきまで一緒に居ました。それで、今日、正臣さんと話をしようと思って。ここで降ろして貰いました」
「……そっか。……みょうじ、大丈夫か?」

 そう言って私の顔を覗き込む澤村先輩の顔つきは、何かを知っている様な。それでいて、本気で心配している顔で。私以上に深刻な顔をしてるいるから、私もまじまじと澤村先輩を見つめ返す。どうして先輩がそんな顔をするんだろう。どうして、そんなに苦しそうな顔を浮かべるんだろう。

「はい。もしかしたら私の勝手な思い込みかもしれないし、それならそれで笑い話だし、いつまでも1人で不安がってるよりかは2人で話した方が良いと思うし。それ……に…………」

 そこまで言って、話すのを止める。……いや、止められたといったほうが正しいだろう。

「なまえ……」

 “それに”の続きは何だっただろう。澤村先輩に私の希望を話していた所だった筈。その続きを言いたいのに。全くもって口は機能してくれない。脳だって、今目の前で起こっている状況を処理しきれていない。

――なんで、どうして。どうして。どうして。

 そんな疑問ばかりが浮かんでは転がり、浮かんでは転がりを繰り返している。今は一体、どういう状況なんだろう。エントランスの向こう側から出て来たのは待ち望んでいた人物で。部屋に正臣さんが居た事もどうしてと尋ねたい事柄ではあるけれど、それよりも。

「洋子……」

 今日は1日ダラダラするって、今朝ラインで言ってたよね? それなのに、どうして正臣さんの隣に洋子が居るの? どうして正臣さんの腕を洋子が掴んでいるの? どうして、そんなラフな格好で正臣さんのマンションから出て来たの? どうして? どうして……? ねぇ。正臣さん。どうして、私を見てくれないの? どうして目線を逸らすの? どうして、言い訳をしてくれないの?

「ねぇ……、どうして?」

 私の絞り出すような声に、肩を抱き寄せてくれたのは澤村先輩で。正臣さんは私と目を合わそうともしてくれない。どうして。ねぇ、正臣さん。

prev top next
- ナノ -