わたしの春を青くしたひと

「及川。今すぐ琴音のこと追いかけて。……お願い。琴音なら多分近所の公園までが限界だろうから。及川! お願い」

 電話の向こうで何か言っていた気がするけれど、聞こえないフリをして無理矢理電話を切る。聞いちゃうと心が揺れるから。私が、こうしたくて選んだこと。これが私。大丈夫。まだ、私は私だ。

「及川に任せて良いの? 琴音ちゃんのこと」
「良い。コレで合ってる」

 音を立てないようにゆっくりと救急セットを開き、手慣れた様子で消毒を始めていた松川に問われる。電話の途中で言葉が上擦ったのは、消毒液が沁みて痛かったからだ。なのに松川から「大丈夫?」と訊かれると、別の部分を心配されている気分になる。

「大丈夫。ほんの擦り傷だから。松川こそ、付き合わせちゃってごめん」
「いやいや。怪我させたの俺だから」
「違う。……私が、もっとちゃんとよく見てれば……」
「みょうじ? なんかあった?」

 一瞬だけ、松川に本心をぶつけそうになった。松川なら聞いてくれるかな、って揺らいだ。……だけど、私のこの気持ちは誰にも見せないって自覚したあの日から心に決めている。それを今更見せるなんて出来ないし、しちゃだめ。松川とは冗談を言い合えるクラスメートで居たい。

「……ううん。なんでもない」
「みょうじは無理ばっかしてるな」
「え?」
「言いたくないなら訊かねぇよ? でも、言いたいのに言えねぇんなら、言った方が良い」
「でも……、」
「みょうじは十分頑張ってる。俺はそういうみょうじのこと偉いと思うぞ」
「……ねぇ。松川……私、どうしたら良い? お、及川のこと……好きなの……どうしよう……松川ぁ……」

 墓場まで持って行くと決めていた気持ちを初めて晒した。貫き通さなきゃと思っていた意志を折ってまで告げてしまった恋心。口に出してしまえばソレは、みにくいモノのような気がして、寒気がする。
 こんなの、私じゃない。思い描いた私からは生まれないハズの感情。やだ。こんな気持ち、嫌だ。

「苦しかったな」
「うっうぅ……っ、」

 瞼をギュッと閉じ合わせても、隙間を縫って涙がポロポロと零れ落ちてゆく。違う、こんな涙も、私じゃない。違う、こんなの、全然私じゃない。

「その気持ちだってみょうじが感じた気持ちなんだろ? 認めてやれよ」
「……うっ、ぐっ、ふっ、」

 絶えず零れる涙を、松川は優しくジャージの袖で受け止めてくれる。拒絶し、追い出そうとする私の気持ちを、松川が“合ってる”と言ってくれているみたいで。素直に頷くことは出来なかったけど、これ以上、隠し続けた気持ちを否定することも、私には出来なかった。

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