思い通りになんていかないものです

これのアナザー話


 お願いだから、そうオフクロに泣かれたのは初めてのことだった。今までどれだけ悪さをしても頭に角を生やして怒声を上げるような人間の涙は、俺には物凄く効いた。ましてや泣かれるだけのことをしてしまった自覚だってあるのだからなおさら。

 だから2回目となってしまった中学1年生では超が付くほどベタにド真面目な生徒になることを誓った。
 ド真面目とは。そう考えた時もやもやっと浮かんだのは瓶底眼鏡に前髪をぴっちりと分け、髪の毛をペタっとさせた学生の姿だった。

 まずは形からとそれら全てを真似、お淑やかな生徒に紛れ込むこと数週間。誰からも声をかけられない現状に首が傾く。今の俺からは殺気も出ていないハズなのに。どうしてみんな俺を奇怪な目で見るんだ?……うーん、分からねぇ。

 俺の頭は書きたい漢字が出てこないもどかしさと、それを訊きたいのに誰も近寄ろうとしてくれないこのクラスの不思議さに混乱に陥っていた。



 分からないことがあれば職員室で先生に尋ねる。それが俺が必死に出した答えだった。が、過去の俺を知っている先公に頼るのはなんか癪で、それに、散々呼び出された職員室に自ら出向くなんてことはしたくなくて、さてどうしたものかと悩んでいる時だった。
それまで景色でしかなかった廊下にある文字が浮かび上がってきて、そこで足を止めた。

「図書室になら、辞書あんじゃね?」

 第3の答えを自分1人で編み出したことに高揚しながら勢いよく開けたドア。その向こうには見たことのない量の本がビッシリと密集しており、その夥しさに虫唾が走りそうになった。何より、数人の人間がいるにもかかわらず、意図的に作り出された静寂には今まで対峙してきた喧嘩相手よりも手ごわいなにかを感じ、思わず固唾を呑んだ。
 大きな音を立てたドアに数人の視線が向けられたが、ぺったり眼鏡であることを認識した途端に少し眉根を寄せながらも自分たちの世界へと戻っていってしまう人々。

……ここは異国か?

 なんとも居心地の悪い空間に、さっさと目的を果たして出て行こうとズカズカと領地へと踏み入れ目当ての辞書を探すことにする。……が、全くもって手の付け方が分からない。辞書は一体どこにあるんだ? どれもこれも一緒に見える背表紙にイライラが募っていく。とりあえず分厚い本をとってみても変な横文字が羅列されていたり、開けてみたら全然違うものだったり。俺はただ漢字が知りてぇだけなんだよ。

 またしても当てが外れた本をどうにか理性を保ってそっと仕舞った時。「探し物?」という声は訪れた。

「……あ?」
「あ、ごめん。さっきから色んな本見てるから」
「あー……辞書? 探して、て」

 苛々していたのもあって、思わず凄みを利かせながら問い返してしまったが瓶底眼鏡のおかげで誤魔化すことが出来た。そのおかげで女子生徒は臆することなく俺に声をかけ続けている。…こうやって誰かに話しかけられんの、なんかすげぇ久々だな。どうでもいい感想を抱きながら女子生徒の後を追うと「あったあった」といとも簡単に辞書のコーナーへと導かれた。こんな迷路みてぇな場所、よくもまぁスタスタ歩けるもんだな。

「ちなみに、辞書ってなんの辞書?」
「あ?」
「国語辞典とか漢字辞典とか英和辞典とか色々あるでしょ?」
「へー」

 俺を見つめる女の顔が驚いた表情に変わる。なんだよ? と不快に思いもしたが、この見てくれだ。真面目そうなのに? と思ったに違いない。それなら仕方がない。中身は隠しようもないのだから。

「悪い、そういうの詳しくないんだ。教えてくんね?」
「そっか。……じゃあ、君が調べたいのはどういう事柄?」

 ちぐはぐな言葉で頼めば女は自分なりに考えを落とし込んだ後、そうやって質問を重ねてきた。“事柄”の意味がよく分かんねぇけど、“調べたい”のは漢字だ。

「トラを……」
「とら?」
「……えっと、漢字が知りてぇです」
「漢字かぁ……じゃあ漢字辞典だね」

 何度か言葉を往復させた後、女の視線が再び棚へと移り、上下左右忙しなく動かしだす。そうして少し上の場所で留まったソレは1点を見つめ「あった!」と声を出す。

「漢字辞典ならあれが1番、良い、かとっ」

 一生懸命足を伸ばし、あと少し届かない距離にもどかしさを感じている女。頭を上げた流れで髪の毛がさらさらと動いている。きゅっと皺寄った表情がしわしわしていて。何か、それが無性に良いなと思った。端的に言えば性癖に刺さった。だが、相手は自分の為に必死になってくれているのだ。今そんなことを思うのは失礼な気がして後ろから目当ての辞書を抜き取る。

「わっ、」

 そうすると短い言葉を吐いてこちらを振り向く。その表情にはまたしても驚きが含まれていて、それすらも良いなと思ってしまった。

「さんきゅ。助かった……ました」

 最後までまともな言葉を紡げないまま踵を返し、図書室を出た後で名前くらい訊いとけば良かったとほんの少しだけ後悔したのを覚えている。

 そして、その後悔はあまり尾を引かなかったことも。良く覚えている。



「わざわざ他校にまで来てそのレベルかぁ? オイ」

 俺はオフクロに謝り続ける人生なのだと思う。固く誓った真面目に生きるという決意はそうそうにかなぐり捨ててしまった。俺にぺったり眼鏡は無理だった。机に齧り付いて真面目気取んのも。性に合わないことはストレスを呼ぶ。そうして1ヶ月と持たなかったド真面目生活は遠い昔のことと封印し、千冬と共に喧嘩に明け暮れる日々を過ごしていた。

「千冬ぅ、そっちはどうだ?」
「こっちももう終わりますっ! オラァ!!」

 凄みを効かせた言葉と共に千冬が雑魚を殴り、ソイツが吹っ飛んでいくのを見送った。さすが千冬。やっぱ仲間とする喧嘩は最高におもしれぇ。真面目な人生では決して得られない高揚感を感じ、ニヤけそうになった口角は雑魚が吹っ飛んだ先を見やった時に半端な位置で止まった。

 そこに、あの日言葉を交わしたあの女が居たからだ。

 対峙していた雑魚に頭突きを喰らわせ、すぐさま駆け出した先で女に声をかける。

「怪我は!?」
「な、ないです……」

 女は伸びた男を見て口に手を当てて驚いていた。ぶつかりはしていない様子にホッと胸を撫でおろしつつ、「千冬! 殴る方向気ぃ付けろ!」と怒声を飛ばす。「すいません!」と向こうから返って来た声に舌打ちをしつつ、数週間ぶりの女に視線を向ける。後日図書室に行っても女は居なかった。そんなもんかと諦めていた所に再び訪れた出会い。……あぁ、この高揚感は喧嘩じゃ味わえねぇな。

「なぁ」
「はい?」
「俺のこと、覚えてねぇの?」
「えっ、どこかでお会いしましたか……?」

 女の視線が数週間前とは全然違うモノに感じる。あの時は気さくに笑いかけて、必死で俺の助けになろうと頑張っていたのに。今は恐怖心を抱き、恐る恐るといった様子で俺を見てくる。

……あぁ、俺のこと覚えてねぇな。

 コイツの記憶に、俺が残っていないことがムカついた。けどまぁ、あれは本当の俺じゃねぇし。つーか、あれが俺と思われんのも癪だ。だから、今度はぜってぇ忘れさせねぇ。

「私、ここで……」
「おい」
「……はい」
「俺、お前のこと助けたよな?」
「そうです……ね。あ、ありがとうございました」
「お礼」
「へっ?」
「お礼、ちゃんとしろよなぁ」
「えっ……」

 両手で女の逃げ道を塞ぎ、口角をあげ見つめる。すると女の顔は比例するように青ざめていくのが分かる。あぁ、駄目だ。喧嘩より興奮する。

「お前、名前は」
「みょうじ、みょうじです……」
「へぇ。なぁ、なまえ」
「……?」

 静かに問いかけるように名前を呼ぶときょどりながらもしっかりと目を見つめてくるなまえ。なんともまぁ従順な態度が可愛らしい。決めた。

「付き合えよ」
「は、はい……」

 コイツを俺の側に置く。俺を二度と忘れらんねぇくらい刻んでやる。そんな企みでなまえに命じると怯えたように首を縦に振ってみせた。どうせ今だけだ。そうやって怖がってれば良い。惚れさせる自信はある。

 なまえと俺が両想いになれるのはまだ少しだけ先の話だなんて、この時の俺はまだ知らない。

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