なまえが牢に入れられてから数ヶ月が経った。
深まる寒さの中で、夜を迎えることが憂鬱になり始めたのはここ最近のことではない。
初雪を迎えてからは頻回に雪が降り、牢の外では膝下が埋もれる程の高さまで積雪している。
見ているだけでも身体が震える光景だ。
杠がくれた上着の有り難みをこの時ほど大きく感じたことは恐らく後にも先にもないであろう。
流石にこの気温の中でも、牢の中で焚き火を起こしてやることは出来ないらしい。
見兼ねた看守達が防寒具や毛皮なんかを差し入れてくれるからこそなまえの身体は耐えていた。
とはいえ、彼女もただ厳しい季節を生きながらえるためだけに決して短いとは言い難い期間を過ごしてきたわけではない。
なまえは投獄された当初から密かにこの牢を破るために行動していた。

連日の寒さを乗り越えられるようにと、牢の中だろうと一日三食きちんと支給される食事は身体を温めるのに効率的なスープが主だ。
たとえば、ある日の晩に支給された椀には干し肉と山菜のスープがよそわれていた。しかしなまえは全部平らげてしまうことなく、具材と少量の汁を啜っただけでそれを残す。
残った汁を少量ずつ、竹格子の交差点を結んでいる細い縄に含ませてゆくのだ。
彼女は看守に怪しまれぬよう、目を盗みながら手に届く結び目すべてに同じような工作を加え続けていた。
というのも、縄の腐食を狙ってのことだ。植物の繊維であるそれは水気を含ませれば容易に腐食が進む。
冬の乾燥しがちな空気の中では自然頼みの降雨による湿気しか望めやしない。
そんな調子では季節をいくつ牢の中で過ごすことになるか分かったものではなかった。

塩分やらの混じった不純物であるスープを食事のたび縄に食わせていれば、天気の変化で自然に生じる湿気よりずっと腐食が早いはずだ。
これは実際の鉄牢でも行われたことのある脱獄方法である。鉄格子に味噌汁を掛け続けてその塩分で鉄を錆びさせ、格子を外しても尚大人が潜り抜けるには狭すぎる小窓から全身の関節を脱臼させて脱獄した驚異の男がいたのだが、まぁここでは割愛する。
実際にどれ程の年月をかけたのかはともかくとして、鉄をも破ることが出来る手法だ。素人の手で作られた急拵えの縄を破るのはさして難しくもないだろう。
事実、なまえの思惑通りしっかりと縄の腐食は進んでいた。
縄の傷み具合から見るに、少し力を加えればもう簡単に千切れ落ちてしまうことだろう。

それ自体は計算通りであったが、ただひとつ彼女には誤算があった。
腐敗が早く進み過ぎたのだ。
気温が低ければ菌は繁殖しづらく、もっと傷むのに時間が掛かると踏んでいた。
なまえにとって最良のタイミングは、丁度雪解けの季節である。開戦直前にしろ直後にしろ、国の人間が慌ただしく動き始めた時が頃合いだと見ていたのだが。

今にも崩れそうな格子を見つめながらなまえは思案する。
今はもう既に日暮れより数時間が経過した夜深く、酷く冷え込んでいる。
昨日止んだ雪が再度勢いを増して降り始めており、この調子で明日の朝まで降り続ければ足跡も消えるであろう。
野晒しの身体を温めるため看守は白湯を頻回に飲む。尿意を催した男が腰を上げるのを視認したなまえは、この機を逃せば後はないと直感した。

一番最悪の事態は、脱獄の前に縄の腐食に気付かれてしまうことである。
精神的にも物理的にも工作を加えてきたここまでの苦労が泡になるだけでなく、今まで猫を被っていたことがばれてしまえば監視の目もその後厳しくなることだろう。
迷っている暇は、ない。
仮定と証拠を突き合わせて推測を立てるのが推理というものだが、この時なまえの頭にあったのはそのような論理的なものではなく、単なる博打に過ぎなかった。

なまえは、懐から小石を取り出した。
無論この牢に放り込まれた時にナイフは取り上げられているため、それはただの小石だ。
が、唯一牢から出られるトイレの時間を用いて自然から調達し、牢の中の岩壁で幾度となく地道に側面を削ったそれは、腐った縄を切るのには十分な鋭利さを持っていた。

この場に看守が居たならば振り向くほど結構な音を立てて崩れ落ちた格子は、最早ただの竹になり果てている。
久しく縁のなかった自由を得た感慨に浸る暇もないまま、なまえは未だ穢れなき雪上に降り立った。
雪の上を歩くことを想定していない彼女の履物、旧世界ではサンダルに近いだろうか、それで地面を踏み締める度に爪先がひんやりと感じられることですら今は愉快だ。
出来る限り歩数を最小限に抑えつつ、看守が戻ってくる前になるべく遠くまで逃れねばならない。
なまえは杠から貰った上着一枚を羽織って先を急いだ。幸いというべきか、雪はいよいよ吹雪いて彼女の小さな足跡をすぐに消し去ってくれることだろう。

この国周辺の地理に関しては、司の部屋にいた時に飽きるほど見ていたので勘でも大体の方角を定めて歩ける自信はあった。
が、こうも雪が景色を覆い尽くしてしまうとその記憶ももはや意味を持たない。
この分では追手も同じ状況であろうから、実質撒いたのは喜ぶべきことだが。
彼女の履物は、防寒に適した造りですらないのだ。一歩一歩、柔らかな雪を踏み締める度に身体が重くなった。
先まで痛みを訴えていた耳も、指先の感覚も失い、雪で湿気が染み込んだ足元もまた、同様だった。
もう一歩、そう気力を振り絞って踏み出した足がもつれて彼女は柔らかなベッドの上に倒れ込んだ。
一瞬首が熱い気がしたが、硬い岩窟の寝床に較べれば幾分か寝心地が良く思える。
失せた感覚も手伝って重い身体を起こす気にはなれず、彼女は閉ざした瞼に抗えぬまま深い意識の底に落ちて行った。

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